お茶の水女子大学
日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成
コンソーシアム・シンポジウム一覧
コンソーシアム(平成20年度)
2008年
(平成20年)
12月15日(月)
第 1 日 目
12月16日(火)
第 2 日 目
12月17日(水)
第 3 日 目
プログラム
































講演
研究発表
要 旨


第3回 国際日本学コンソーシアム 「~食・もてなし・家族~」  

★★★ 講演・研究発表 要旨 ★★★


12月15日(月)  第1日目   
12:30-16:30 日本語学部会      [担当] 高崎みどり(本学)、[司会] 百瀬みのり(本学大学院生)

【第一部】   [会場] 人間文化創成科学研究科棟6階大会議室(607号室)
講   演 :
「タマネギ1個とセロリ1本 "One onion and one celery"?-食べ物名詞の捉え方の日英比較と英語・日本語教育への示唆」
岩﨑典子(英国・ロンドン大学SOAS)
 英語では名詞が可算・不可算かを常に考慮して適切な形(複数形・単数形)を選択しなければならない。一方、日本語では、数量を指定したい場合に限り、助数詞を使う必要がある。食べ物名詞に関しては、英語では可算名詞も不可算名詞も多く、 日本語では関連する助数詞が様々である。可算・不可算のような文法カテゴリーが話者の物の捉え方(意味に基づく分類) などの認知に影響するという言語相対論の仮説が正しければ、日本語話者と英語話者の物の捉え方は異なる可能性が高い。本発表では、まず、可算・不可算の文法的区別の存在(英語)・不在(日本語)が英語話者・日本語話者の食べ物名詞の捉え方に影響するかどうかを調査した実験 (意味判別課題と食べ物の命名による言い誤り誘引実験)の結果をまとめ、食べ物の名詞に関しては両話者の捉え方に有意差がなかったことを報告する。その結果に基づいて、なぜ言語習得において可算・不可算や助数詞が困難なのか考察し、英語教育・日本語教育への示唆を論じる。  

研究発表 : 
「広告と食―日・韓のコマーシャルからみることばと食―」
具軟和(本学大学院生)
1. 調査の目的
現代の人々は多かれ少なかれ広告の影響を受けている。広告は言語を用いたコミュニケーションであり、私達の生活や社会は広告によって作られていると言っても過言ではない。本発表は、広告のなかでもテレビのコマーシャル(以下、CMと略する)特に食品のCMを通して広告のことばが捉える「食」について考察する。

2.調査の方法
具体的には、各CMに使用されている語彙のなかから自立語を抜き出し、それの使用回数や使用頻度の高い語を調べる。また、「味」をどう表現しているかを調べ、日本と韓国のCMの特徴を調査する。

3.調査の結果
結果を以下にまとめると、
1.自立語の使用回数は、日本のCMに比べ、韓国のCMが異なり語数、延べ語数ともに多かった。
2.使用用語の特徴をみると、日本のCMは「おいしさ」、「おいしい」、「うまい」ということばの使用が最も多く、そのほか「自然な」、「やさしい」、「健康」などのような語の使用が見られる。また、味を表す表現を調べた結果、日本のCMは味覚を表す感覚形容詞のほか、「贅沢な」、「健やかな」、「上出来」など、様々な言い方が用いられている。
3.一方、韓国のCMは日本のCMと同様に「おいしい」という用語が多かったが、その使用回数は日本のそれを遥かに越える。また、日本のCMと違って「良い」という形容詞の使用が目立つ。「体に良いもの」、「良い成分」など、食品の品質をアピールする傾向が強いことが特徴と考えられる。
4.両方の広告とも「自然」、「健康」という語の使用が多く、食における関心事が似ている。しかし、韓国のCMに比べ日本のCMは、食品の味を表す表現が豊かであり、消費者に訴えかける表現にも違いがある。

 今回のデータの調査から広告のなかの「食」に対する両方の捉え方の違いが見られた。今後もさらに広告のことばを詳しく分析することによって考察を深めたい。

質疑応答
*************************休  憩*************************

【第二部】  [会場] 人間文化創成科学研究科棟6階大会議室(607号室)
研究発表 : 
「日本語学習者からみたジェンダー言語」
阪口治子(英国・ロンドン大学SOAS大学院生)
 日本語は性差が顕著にみられる言語として、「言語とジェンダー」の研究において大きな注目を集めてきた。日本語における性差は一般的に人称代名詞や終助詞、敬語、声の高低、イントネーションなどに見られると言われている。しかしながら最近は「言語とジェンダー」に関する多くの研究が日本語における実際の言語行動の多様性を示唆しており、「女言葉」、「男言葉」をそれぞれバリエーションのない均一な言語であるとし、これら二言語間に明確な区別を想定する従来の判断に異論を唱えている。これらの研究ではジェンダーは言語行動に影響を与える唯一の社会的属性としては扱われず、年齢や職業などといった話し手のその他の社会的属性やスピーチコンテクストなどの詳細な検討が性差を語る上で不可欠であると考えられている。例えば、話し手の年齢が言語行動に重要な影響を与えること、若い世代の言語行動における性差の減少などを示唆する研究もある。
 言語を習得することは文法的言語能力だけではなく語用論的言語能力を習得することも意味している。つまり学習者は言語を文法的に正しく使うだけではなく、様々な状況で適切に使うことを学ぶ必要が有るのだが、ジェンダーはここで話し手の一つの社会言語的属性として重要な役割を果たすことになる。
 本研究では日本語学習者のジェンダー言語認識を明らかにすることを目的にアンケート調査を行った。調査は日本に留学経験のある67名の日本語学習者を対象に、(1)どのように日本社会でのジェンダーを捉えているのか、(2)どのようなジェンダー言語を認識しているのか、(3)日本語における性差と日本社会の関係をどのように捉えているのか、(4)実際にジェンダー言語を使おうとしているのか、(5)ジェンダーを明示することを日本語で学ぶことで自らのジェンダー意識が高められたと感じているのか、という5点に関して、選択式ないし自由形式で回答させた。
 その結果、回答者の大半がジェンダー言語に関してステレオタイプ化したイメージを抱いており、実際の言語行動の多様性に対しては深い認識を持っていないことが明らかになった。また、学習者のジェンダーだけではなく年齢が彼らの回答に影響を与えているという可能性を示唆する結果も得られた。
本発表ではこのアンケート結果に基づき日本語学習者のジェンダー言語認識について考察し、日本語教育への示唆を論じる。  

日本語の歴史の中の位相と性差
藤井禎子(本学大学院生)
 1.日本語の歴史の中の位相
 日本語に位相があることは、古くから注目されてきた。
 位相と聞いて、おそらく一番に思い浮かぶものは、性差――男性語・女性語ではないだろうか。日本語は世界的に見ても、性差の違いが大きい特徴を持つ言語であると言われるが、男女で言葉遣いが違うということは古くから気づかれていた。平安時代、男性は漢籍・漢文――漢語中心の世界、女性は和歌・物語――和語中心の世界 という、異なる言語世界で生活してきたという背景がある。それに伴い、自身の性にふさわしい言葉遣いをするべきだとする規範意識も生まれ、現代にもその意識は少なからず受け継がれている。
 地方による言語の違いも位相に数えられるだろう。方言、特に東国の言葉は、古く奈良時代もしくはそれ以前から都の人に知られ、関心をもたれていた。平安時代の中央集権においては侮蔑の対象とされたが、鎌倉時代以降、東国武士の台頭を初めとして、徐々にその存在感を強めていった。何より、戦によって東国武士がどんどん京に入り込み、東国の言葉を持ち込んだことは、近代日本語の形成に大きな役割を果たした。
 その他の位相としては、年齢・世代による違いや身分・階層による言葉の違いが挙げられる。

2.女房詞
 閉鎖された社会集団では、その集団特有の言葉遣いが発生することがある。これも位相語と捉えられよう。日本語の歴史の中では、そのような語彙の一群として「女房詞」がある。これは女性語と深く関わりをもつ。
 女房詞とは、室町時代頃に、宮廷に仕える女房たちの間で用いられ始めたとされる独特の言葉の一群である。例えば、「くこん(酒)」「おまな(魚)」「すもじ(鮨)」「てなし(月経)」など。高貴な人の前で食物や身の回りの不快感・不潔感を喚起しやすい事物を直接表現することを避け、遠回しな言い方に換えることで、上品さ・優雅さを醸しだすと共にある種の特権意識を生んだ。
 のちに女房詞は宮廷を出、女性のたしなみ、教養として次第に社会一般に広まっていった。江戸時代には、女房詞系の上品・優雅な言葉は「大和ことば」「女中ことば」などと呼ばれるようになり、良家の子女の言葉遣いの心得ともされた。このようにして女房詞が女性の言葉遣いの手本・理想とされたことは、「女性らしい言葉遣い」規範に大きく影響を与えている。
 また、時代が下るに従い広く一般化をたどった女房詞は、その過程で女性だけでなく男性にも使われた。そのためか、女房詞起源の語彙で、現在にも残っているものがいくつもある。「腹」に対する「おなか」、「うまい」に対する「おいしい」などがそれである。これらには若干待遇的な意識が残っているが、中には、「おかず」「ひもじい」のように、待遇もしくは品格への意識が失われ、通常語として定着している語も少なくない。
 このように、女房詞は女性語、ひいては日本語の歴史に影響を与えたものとして注目される。

以上のような流れで、日本語の歴史の中の位相と性差、女房詞について簡単に紹介する。  

「江戸語の位相と遊里語」
アンナ・チョールナヤ(本学大学院生)
 本論では、江戸時代の言語状況の概観を始めとして、当時、遊里のもてなし文化によって女性特殊語として発生した遊里語に関する解説は、遊里語自体の記述や分類を含め、その実態を明らかにすることを焦点にあてており、主要部分はそこにあるが、それと同時代に性差による位相関係にあった男性特殊な言葉として武家詞の用例を幾つか採り上げ、その言葉を考察したうえで、江戸語における位相諸相を概説する。  
 
「タイ語の文末辞と日本語の終助詞「わ」:「Kha」と「わ」の対照」
イソ・アパコーン(本学大学院生)
 日本語では話し手の性別を表わす終助詞といえば、「わ」はその代表だと言えるだろう。タイ語にも、「わ」のような話し手が女性であることを表わす文末辞がある。それは「คะ」(Kha)という文末辞である。両者の明らかな共通点は、文末に付ける言葉で、女性が使う言葉、つまり、「女性ことば」ということである。本稿は、先行研究をふまえ、「kha」と「わ」の使用法を比較し、両者の共通点と相違点を見出したい。最後に家庭内の言葉遣いに注目し、両者の使用をまとめておく。
 タイ語文末辞「คะ(kha)」は女性によって相手に対して丁寧さを表わす時や敬意を表わす時に使用される。タイでは一般的に話し手の女性が親しくない相手、上位者や尊敬する相手に対して使う。従って、タイ語の日常会話では、女性は先生と会話する場合や初対面の場合に「kha」をよく使用する。しかし、相手との親密さが増えれば増えるほど、「kha」は使用されなくなる傾向がある。「kha」の一貫して使用している使用者のイメージは、大人しい、教育された、品の良い、都会の女性などである。
 一方、日本語終助詞「わ」は大辞林などの辞書によると、女性の話し手が親和感を表わすために文末に「わ」を加えるという。つまり、「わ」は女性の話し手が使用する終助詞で、「わ」の伝統的な機能は「親和感を表わす」ということが言えるのだろう。ところが、山路(2006)は、現在「わ」の使用に関して変化が見られたと指摘している。それは、「わ」のイメージと発話の態度である。つまり「わ」は、一貫して使用している使用者に注目すれば、「年配の女性らしい言葉」というイメージになり、発話の態度は、一貫して使用していない使用者の使用の態度に注目すれば、「親和感を表わす」という態度から、「強気を表わす」態度に変化したと言われる。
 「Kha」と「わ」の対照、特に家庭内の使用については、「kha」は実際に家庭内で殆ど使われていない。家族という親密な関係を持っている人々の間で、丁寧さを表わす「kha」の使用は距離感が与えてしまう。親子の間で「kha」の使用はまったくないとは言えないが、その場合、教育された上品だという家族のイメージを持つのだろう。一方、「わ」は現在、若年層によって殆ど使用されていないと言われる。家庭内の会話では、母親が家族のほかのメンバーに対して使用するとしても、子供は使用しないのであろう。
 そこで、「kha」と「わ」の共通点が一つ分かった。それは家庭内の使用は殆ど見られていないことである。「kha」は丁寧さを表わす機能により、家庭という親密度の高い場面での使用は珍しいと思われる。この傾向は現代になってから変化が見られたのではなく、昔からの状況である。一方、「わ」は機能に変化があり、「親和感」の表現から「強気」の表現に変化した。従って、家族の場面では、特別な状況、例えば、言い合っている場合などではないと、使われないのであろう。年配の女性は使用するというイメージはあるが、実際に一般の家庭では母親などの年上の女性によっても、殆ど使われていない。両言語は、文末に置く女性ことば「kha」と「わ」が家庭内で頻繁に使われていないことがいえるのであろう。
 
「平安時代の和歌の贈答について」
 高橋秀子(本学大学院生)
  平安時代には、和歌や和歌を書いた文を贈る時、それを花や葉、枝といった植物に添えて贈ることが多く行われた。また、和歌を花や葉に直接「書きつく」こともあった。金英氏は、「平安朝における文付枝研究――『枕草子』を中心に」において、「消息などの文に添える木、草、花のこと」を「文付枝(ふみつきえだ)」と称しておられる。しかし、当時の和歌集や物語には、植物を「添える」例だけではなく、植物に「書きつく」例もしばしば見られることから、私は、和歌を「書きつく」植物も文付枝として位置付けることにする。
一〇世紀後半の作品に、『うつほ物語』という小説がある。これは『源氏物語』に先立って書かれた長編小説である。この『うつほ物語』と『源氏物語』の文付枝の例を検討すると、例の数はほぼ同数であるが、用いられ方の相違として次のことが浮かび上がる。それは、『源氏物語』では用いられ方が「添える」に終始すると言っても過言ではないのに対し、『うつほ物語』では用いられ方が様々であり、その植物の種類も多いということである。左に、『うつほ物語』における文付枝の数例を挙げたい。
○菊の宴(えん)巻(『新編日本古典文学全集 うつほ物語』第二巻、八三頁)
 大将のぬし、長谷より御嶽(みたけ)詣でと思ほし立ちて出でたまふに、井手(いで)のわたりにありける山吹の面白きを折りて、かく聞こえたまふ。
  「思ふこと祈りて行けばもろともにゐてとぞ告ぐる山吹の花
唐土(もろこし)もとかいふなれば、頼もしくてなむ」と聞こえたまへり。
*右大将兼雅(かねまさ)が長谷寺から金峰山に詣でようと思って出かけた時、井手の辺りに風情のある山吹の花が咲いているのを見付けた。それを折って「思ふこと」歌を結び付け、あて宮に贈った。
○蔵開(くらびらき)中巻(同書、五〇九頁)
…栗を見たまへば、中を割りて、実を取りて、檜皮(ひはだ)色の色紙に、かく書きて入れたり。
  行くとても跡をとどめし道なれどふみ過ぐる世を見るが悲しさ
とあり。
*仲忠(なかただ)が、父兼雅のかつての妻妾達が住んでいる一条殿を訪れた時、妻妾達が仲忠に柑子(こうじ)や橘の実、栗といった果物を投げつけた。帰った仲忠が父と共に投げられた果物を見ると、中には、妻妾達が兼雅の訪問が途絶えたことへの嘆きを詠んだ歌が入れられていた。
 以上のように、『うつほ物語』には、和歌に植物を「添える」例だけではなく、実の中をくり抜いて和歌を入れるといった特異な例もあり、他にも、植物に「書きつく」例や手習いの手本に植物を添えて贈る例がある。よって、『うつほ物語』では、文付枝の用いられ方が多岐にわたっていると言える。
 金氏は、前掲論文において、『うつほ物語』の文付枝は「物語展開の重要な要素とはなりえず」、「消息の内容やその場の心理状況、受け手と贈り手の人物のあり方とも深い関連がない」と述べておられ、『源氏物語』のそれは「文付枝を媒介に贈り手と受け手との間に洗練された私的対話を成立させるとともに、登場人物の教養や情趣など言葉では表せ切れない部分まで表すような独立した表現手段」であると述べておられる。確かに、『うつほ物語』の文付枝は、文付枝と和歌の内容との関係が明瞭でないものもあるので、内容への関与という点で未熟と言えるかもしれない。しかし、文付枝の例が多彩であることは、看過できない事実であると言えよう。
これより、『うつほ物語』の文付枝から、当時の人々の文付枝への関心、贈答への関心のありようをはじめ、どのようなことを読み取ることができるのか、考えてみたい。そして、この考察を踏まえて、当時の文付枝と和歌の関係について探ってみたいと思う。  

*************************休  憩*************************

【交流の時間】     [会場] 人間文化創成科学研究科棟5階SCS室
① 参加大学院生のスピーチ
「目的をもった会話の研究―多人数による話し合い場面を中心に」 星野祐子(本学大学院生)
「中世期日本語資料にみられる接続詞の機能」 百瀬みのり(本学大学院生)
「歌舞伎テクストにおける義太夫節の機能」 井之浦茉里(本学大学院生)
「日中語の指示詞の対照研究」 王湘榕(本学大学院生)
「三島由紀夫の戯曲の表現」 高橋由衣子(本学大学院生)
「言い切りのタについて」 石井佐智子(本学大学院生)
② SOASなど参加協定校における日本語学研究の現状報告、共同研究の可能性、等、
  自由な意見交換
15:30-19:00 歴史学部会  [会場] 人間文化創成科学研究科棟6階大会議室(607号室)
             [担当] 古瀬奈津子(本学)、[司会] 矢越葉子(本学大学院生)
【第一部】
講   演 :
「国民性を反映する食の文化及びその変遷」
ヤン・シーコラ(チェコ・カレル大学)
 90年代以降、地域統合の深化及び各共同体の地理的な拡大に向けた動きが進展している結果、それぞれの地域の特徴が次第に消えていく一方で、アイデンティティーを再定義する傾向も強くなっている。各地域性をよく反映して、アイデンティティーの再確認の手段として重要な役割を果たしている「食」およびそれぞれの「食文化」も、グローバリゼーションの趨勢の中で、均一化の方向へ向かっているとも言われる。欧米企業を主体にしたファーストフード店が、世界各国の地域都市にまで展開していたり、インスタント食品やスナック菓子などが流通するようになっているのも、流れの一つであるが、しかしこれに逆らう形で郷土料理の見直し、地産地消、スローバースト運動のように、固有の食の文化を大切にする気運も生じている。
 日本の有名な論理学者、文化史研究者である和辻哲郎は、海外旅行の体験を踏まえて、1935年に『風土』という著作を出した。その中には、自然環境がいかに人間生活を規定するかという問題を掲げて、人間存在の構造契機としての風土性を明らかにした。風土をモンスーン、砂漠、牧場に分け、それぞれの風土と文化(食の文化含めて)、思想の関連を追及した。和辻哲郎の方法論を適用して、チェコの風土を指摘してみれば、チェコの風景は、「母性的・母のような」感じがする。こうした自然状況はチェコ人の国民性にいったいどのような影響を与えたのか。
 さらに、風土との密接な関係のある食べ物及び食の文化を分析してみれば、いくつかの特殊を描写できる。その一つは、チェコ地方の人口は、食料があったとき、ただ食べるだけではなく、「たくわえて食べる」、要するに、状況が許す限り食べ過ぎる習慣があったわけです。その豊富さのチェコ代表的な習慣は「ザビヤチカ」、豚殺し中心にする「肉祭り」である。
 発表のとき、その祭りの写真及び「Postriziny」( カッティング・ショート断髪)という映画に描かれたその祭りを説明しながら、チェコ人にとって「食」というのは、いったいどういうものかを体系的に紹介してみる。
 ところが、Edimus ut vivamus, non vivimus ut edamus (生きるために食べるべきで食べるために生きてはならぬ)というソクラテスの名句によれば、「食」にはもう一つの側面がある。それは神聖・神秘的な役割である。行事の祭りには、日常とは異なった料理がつくられ、異なった様式によって食べられる。そして、チェコの年中行事(クリスマス、復活祭など)にどんな「食」、どんな食の文化が生きていることを紹介しよう。
以上

「家族法における人間像と家族法改正問題」
小沼イザベル(仏国・パリ第7大学)
 現在様々な課題のもと、民法の一部を構成する家族法の改正作業が進められている。夫婦別姓、非嫡出子差別、離婚後300日問題などの提起により、戦後から現在まで一定のまとまりを見せていた家族モデルが明らかに限界を見せているのが現状である。
 これら現実問題にどう法的に対処していくべきかという具体的方法論は多く試みられているなか、現行家族法がどのような人間像を描いているか、いわば法における人間像に焦点を当てて論じているものは案外少ない。しかし、この単一的な法的人間像の限界を論じることなしに現在の家族法問題を語ることはできない。従って、今回の発表では、「現実の人間」に対する法の適用問題を直接的に論じるのではなく、ラートブルフの言う「人間の映像」を現行家族法に限って抽出した上で、家族問題の分析を試みたい。
 法的主体は、フランスの家族法社会学者イレーヌ・テリーを引用すれば、四種類に分類することができる。すなわち、「理想的人間像」(人権享受者)、「社会的人間像」(父、母、嫡出子、娘、息子など)、「文化的男女像」(ジェンダー)、「身体的男女像」(生む性、生ませる性)である。これに対し、日本の家族法は今までどのような人間像を描きだしてきたか。明治民法にまで遡り、さらに現行民法と比較検討したい。
明治民法(1898年)は、周知のとおり日本社会に欧米法が導入されて初めて適用された民法である。「家」が規定されている第四編と第五編には、男女不平等規定は勿論のこと、嫡出性、系統などにも左右された不平等規定が多々ある。なお、家族構成員はどのような言葉で表現されているのであろうか。
 男女に絞っていえば、「男」「女」という表現を用いている条文は非常に少なく、非婚男性・非婚女性を指しているものが例外的にあるにすぎない。多く使用されている表現は、「夫」と「妻」、「父」と「母」等である。つまり、個々の身分に応じて権利義務が変化し、男として、女として一生を過ごす間、息子・娘、夫・妻、父・母、祖父・祖母と一定の間隔を置いてその身分が変動する。よって、上記分類によると第二の分類、「社会的人間像」が色濃い法律と言えよう。
 戦後家族法の改正(1947年)により、これら「夫妻規定」・「父母規定」が、一つのユニットを示す「夫婦規定」・「親規定」に換わられ、平等化が憲法の夫婦同権思想(第24条)のもと試みられる。つまり、夫婦という平等的人間像が新たに創出され、法のもと、一定の理想的自律的行動が期待されるにいたる。
 しかし、民法の夫婦像は、男女平等(憲法第14条)の主体である「男女」に対しどう位置づけられるか。さらに、人権の普遍化による新たな人間像形成ブームがどう家族法に影響していくか、この場をかりて分析したい。

Golf Clubbing ― もてなしとしてのゴルフ」
Angus Lockyer アンガス・ロキア(英国・ロンドン大学SOAS)
My presentation will examine the changing place of golf clubs in the social landscape of twentieth-century Japan. Golf has been one of the main venues for hospitality and entertainment throughout the twentieth-century, but its users and function have changed dramatically over time. In the prewar period, golf clubs were monopolized by the political and economic elite, providing a venue wherein older aristocratic money could mingle with newer financial and industrial fortunes. In the postwar period, however, a series of booms disseminated golf widely throughout the corporate world and middle-class. More recently, following the collapse of the bubble, of which golf courses were one of the most notable victims, some sectors of the golf industry have begun to re-market themselves as a couple-oriented, family-friendly way to spend the time. Golf clubs therefore provide a useful lens on key changes in how people have chosen to entertain themselves and each other throughout the twentieth century. They may do more than this, however. It is tempting to see this transformation simply as a reflection of underlying economic realities. Indeed it would be a mistake to detach the history of hospitality from the economic conditions of the period in question. Golf clubbing, however, also suggests the extent to which changes in patterns of hospitality also determine and are determined by generational shifts in both the normative sociality of a community and the cultural imagination by which this is sustained.

*************************休  憩*************************
【第二部】
研究発表 :
「19世紀におけるジャポニスムと日本製洋食器
“Japonisme in the 19th Century and Western Tableware Made in Japan”
今給黎佳菜(本学大学院生) ※発表言語:英語
 19世紀後半の万国博覧会の開催と共に欧米で巻きおこったジャポニスムは、絵画・工芸・室内装飾など様々な面で西洋人の生活に影響を与えた。なかでも日本の陶磁器への評価は高く、欧米各地の陶磁器デザインに日本風の意匠が取り入れられたり、個人や美術館の体系的なコレクションが形成されたりした。例えばパリ、ウィーン、フィラデルフィアなどで開かれた万国博覧会会場では多数の陶磁器が出品・販売されたし、エドワード・S・モースを始めとする熱狂的な陶磁器コレクターが登場したりもした。今回ここで注目したいのは、欧米側にどのように日本製陶磁器が受け入れられたのかではなく、このような動きを受けた日本側がどのようにジャポニスムに関わったのかということである。例えば、明治政府は、殖産興業政策の一環として、内国勧業博覧会・共進会の開催、図案指導、見本品海外試送など、陶磁器輸出の振興に努めた。生糸や茶と並び、陶磁器もまた重要輸出品の一つだったのである。また横浜や神戸などに買い付けに来た欧米商人に加え、早くから森村組などの商社が欧米へ渡り陶磁器を含む日本工芸品の販売を試みた。
 ところが、近世以来の家内制手工業を続けてきた陶工たちは、突如高まった欧米の需要に対応しきれなくなり、1880年代頃から徐々に日本製陶磁器の粗製濫造・質的低下とそれに対する欧米における厳しい評価、輸出減退が露呈され始めた。そしてこのことは、日本に新たな近代窯業体制の構築を要求していくのである。具体的には、西洋の流行や日常生活に適したデザイン・形状を素早く取り入れること、装飾品ではなく日用品として使用できるだけの堅牢性を陶磁器に持たせること、また国内の産業システムとして同業組合の設立、特許法・意匠登録制度の充実を図ることなどが求められた。
 とりわけ、装飾品よりも飲食器などの日用品輸出の必要性を主張する報告が1900年前後に、領事報告、窯業協会雑誌などに多く見られるようになる。この「日用品」こそ、まさしく西洋における「テーブルウェア」であり、美的に優れ、かつ食器としての機能を持ち合わせた西洋文化において客人をもてなすには不可欠な要素である。この背景には西洋において18世紀から19世紀にかけて、食生活・食文化の発展と共にテーブルウェアのスタイルが確立したということがある。そこで、これまでの装飾的な陶磁器では輸出が伸び悩んでいた日本の窯業界は、洋食器という新たなジャンルに可能性を見出し、生産・販売に乗り出していくのである。興味深いことに、この動きの背景では、輸出先市場がヨーロッパからアメリカへシフトしていく。こうして、日本で初めて洋食器の大量生産・販売を成功させたのは、森村組から生まれた日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニーリミテド)である。
 本発表では、このような日本製陶磁器輸出の盛衰を追うことによって、19世紀後半に起こったジャポニスムの結末として1910年代の日本陶器合名会社による洋食器輸出があったことを明らかにしたい。ジャポニスム以降の陶磁器輸出好況が不況に変わる時、日本の窯業界はどのような問題に直面したのか、そしてそれはどのように解決されていったのか、その試行錯誤の時代について、主に日本側の史料を用いて考察する。
 ジャポニスムが西洋に与えた美的・文化的影響が多く論じられる中で、それが逆に日本に与えた影響、またはジャポニスムへの日本側の積極的な関わり方を提示することができれば、新たなジャポニスム理解の可能性ともなるであろう。

講   演 :
「芋粥の話」
古瀬奈津子(本学)
 芥川龍之介の小説で有名な「芋粥」は、平安時代に編纂された説話集『今昔物語集』にもとになった話が収載されている。『今昔物語集』巻二十六「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」である。一の人(摂関)の正月大饗の下し物である署預粥について、それを食べた五位の侍が「哀れ、何カデ署預粥ニ飽カム」と言ったのに対して、同じ一の人に使えていた利仁が、飽きるまで食べさせてしんぜようと本拠地である敦賀(越前国)に五位を連れていったという話である。
 ここにでてくる「芋粥」について詳しい研究はないようなので、平安時代の史料を使って、「芋粥」とはどのような食物だったのか、五位が飽きるまで食べたいと言った美味しさはどこにあるのか、などについてみていきたい。

研究発表 :
「平安貴族の招待状―書状にみる交遊空間―」
野田有紀子(本学リサーチフェロー)
 中国で発展した公的・私的な書状の様式や書様は、古代日本社会に伝えられ、しだいに普及していった。平安中期には男女・道俗・貴賤かぎらず、私的書状が広く執筆されるようになり、11世紀半ばには実際に貴族社会で取り交わされた書状をもとに『明衡往来』が編纂された。
 さて平安中後期の貴族社会では、作文(漢詩)会・和歌会、祭や相撲の見物、花見・月見・重陽などの宴、蹴鞠、管弦、逍遥・野遊といった私的交遊の集いが盛んに催されたが、こうした集いに先立っては、参加者を誘い集める“招待状”が送られた。そのなかで頻繁に触れられた情報とは、交遊の具体的内容や、食料・酒肴もしくは持参品の連絡のほか、参加メンバーおよびその能力であった。
 当時の私的交遊は同じ職場・職業内や、近い身分の者同士で行うことが基本であったと思われるが、作文・和歌・蹴鞠・管弦・小弓など、参加者に「能」が要求される集いの場合は、招待状中に参加者の能力に言及されている。その場には、地位は低いながらも、その道に優れた専門家も召し加えられ、高位者と同席した。さらに公卿や殿上人の場合も、多才な能があればそれだけ多種多様の交遊に参加する機会が生まれた。
 すなわち平安貴族社会においては、「能」によって従来の社会的範疇を超えた新たな関係を結び、維持することが可能だったのである。「能」は、家格が定まりつつあった院政期にはとくに、貴族社会で生き抜くための武器のひとつとなっていった。
 
討   論
12月16日(火)  第2日目  
13:00-17:00 日本文学部会  [テーマ] 日本文学における食・もてなし・家族
                [会場] 文教育学部1号館1階大会議室  
                [担当] 菅聡子(本学)、[司会] 武内佳代(本学大学院生)
【第一部】
講   演 :
「漱石の作品における食・もてなし―『虞美人草』を例として―」 
 范淑文(台湾・国立台湾大学)
 礼儀や体裁を重んじる日本社会では、日常生活のさまざまな面において身分や場面に相応しい礼儀に従って振舞うのは、古くから固く守られてきた慣わしであることは言うまでもない。その中の一つである客への対応、つまり、もてなしに関しては、『日本風俗備考』には「天候挨拶が、最初の話題となる。つづいて、煙管や煙草またお茶が供され、最後に菓子とパイ、その他の美味しい食物が出される」 と言う記述がある。原書は江戸時代の書物であるため、明治時代における一般庶民の礼儀作法と看做しても差し支えがなかろう。
 漱石の日記や友人への書簡、または『吾輩は猫である』や『草枕』などの早期の作品、『道草』など後期の作品においても、客が来訪する場面がよく設けられる。「美味しい食物が出される」程度まで至らなくても、お茶やお菓子を出す程度のもてなしが普通の礼儀のように思われる。
 『虞美人草』も来客の場面が沢山織り込まれている作品の一つであるが、そのもてなし方は温かくて明るいもてなし方と冷たくて余裕のないもてなし方と大きく二つに分けることが出来る。拙稿では、宗近家の客へのもてなしと甲野家における客への接待に焦点を絞り、両家の来客時の雰囲気の相違点やもてなし方に着眼し、両家の接客の態度やその時の空気をそれぞれの登場人物のキャラクターの象徴としてどう捉えられるかという問題点をを明らかにしてみる。

キーワード:もてなし、来客の場面、庶民の礼儀作法、明るいもてなし方、余裕のないもてなし方
 
研究発表 :
「北条氏繁の寝茶の湯―戦国武将の生活の一齣」
 森暁子(本学大学院生)
 戦国時代には茶の湯が非常に流行し、16世紀末頃には、豊臣秀吉の周辺にいた千利休という茶人が活躍したことが、よく知られている。武将の間でも茶をたしなむことはもてはやされ、良い道具を求めたり、師匠について習ったりということが多くなされた。
 相模の国の武将、北条氏繁(1536~1578)は、小田原の北条氏に仕えた人物である。写本で伝わった『北条記』の一部の系統の本にみえる、「北條常陸守氏重事」の話には、「常陸殿の寝茶の湯」と称されたという、彼の一風変わった茶の湯の逸話がある。ここでは、そのもてなしの心と、ひいては氏繁の人物像について考えてみたい。また、その話の背景として、当時の彼の周辺の茶の湯や食の状況についても触れてみたい。

「芥川龍之介における母性認識―初期の母性描写の抑制から後期の母性謳歌へ―」 
 麥媛婷(台湾・国立台湾大学大学院生)
 芥川龍之介が生まれて七ヶ月(1892年10月)頃、実母ふくが発狂してしまった。それが原因で、龍之介はまもなく実母の兄―芥川道章(龍之介の養父)の家に入り、養父母と伯母によって養育されることになった。後、実母が亡くなり、一生母親に甘える機会がなくなった。その理由であろうか、芥川が母性に対する認識が歪んでおり、ふくの発狂は龍之介に大きな影響を与えた。狂人の子であるため、自分もいつか狂気になるのではないかと龍之介は常に怯えていた。そうした恐怖感と共に、体が弱まった事が、芥川の自殺の原因の一つと思われる。
 文学作品には作家の性格、思想や人生を反映している。本稿では、芥川龍之介の初期、中期前半、中期後半、後期の各時期の中の重要な作品を通じて、母性認識の道程に彼の心境はどのような変化があったかを分析した。また、後期の芥川の心に潜んだ理想的な母性像はどんなイメージのものだっかのかも究明した。
 その結果、実母の欠如の影響で、初期作品「手巾」には母性に対する描写は抑制的、禁忌的であった。しかし、「偸盗」は初期の一つの例外だと考えられる。中期前半の作品「女」「母」から、母性に対する芥川の恐怖感が依然として存在していると伺える。中期後半の作品は一変して、「少年」「大導寺信輔の半生」に芥川の母性思慕が少しずつ浮んできた。後期の「点鬼簿」には、彼はやっと実母が狂人であることを告白し、さらに「西方の人」と「続西方の人」に至ると素朴、忍耐、平凡なイメージは芥川の最後の理想的な母性像であった。芥川の各時期の作品を通して、彼の母性認識のプロセス、つまり母親に対する感情の抑制から母性謳歌までの心境の変化が伺える。

キーワード:芥川龍之介、母性像、恐怖感、母性思慕、母性認識のプロセス

*************************休  憩*************************
【第二部】
講   演 :
「文学家の経済意識と家庭 ―― 島崎藤村と1920年代の日本を背景として ―― 」
  李志炯(韓国・淑明女子大学校)
 本発表は、円本ブームが日本の出版業界を振動させた1920年代の中盤を背景として、島崎藤村など文学者たちが急激に変貌した経済および社会的コンテクストの中でどのような意識を持っていかに対応したかの問題を考察した研究である。とりわけ、文学者の経済意識と家庭との関連の問題に焦点を合わせて考察しようと試みたものである。
 円本全集の空前のヒットによる文学者たちの印税収入は、文学者たちの生活と意識に大きな変化を齎した。作家に付き物の生活苦のため〈貧乏文士〉と呼ばれてきた文学者たちは、莫大な印税収入を基に、世界一週旅行、住宅購入など華麗な消費活動に先走った。だが、こうした文学者たちを凝視する社会からの視線は冷たかった。そうした観点で、自分の巨額の印税収入を子息四人に分配することで、すべて家庭に帰属させた経緯を小説化した島崎藤村の『分配』は注目に値する。
 特に藤村自身をモデルとした「父」が印税収入を子供四人に配分するため、異なる銀行を四カ所も転々しながら奔走する小説の後半部は、謎に満ちている。なぜ、「父」は最初に寄った銀行で業務をすべて処理することも可能であったのに、こうした謎の銀行巡礼をしなければならなかったのか?こうした謎を解く大きな手掛かりは、〈金融恐慌〉という同時代の特殊な経済的コンテクストにあった。当事の片岡大蔵省大臣の失言による金融市場の動揺を防ぐため、政府は銀行の支払猶予を含む緊急勅令を発動するなど『分配』が発表された1927年の銀行状況は非常に不安定であった。藤村の不思議な銀行巡礼は、こうした状況の中で、子供それぞれの立場に適合した最善の分配をするための、そして、そのように見られるための考案であった。すなわち、家庭経済の効率性を最大化するための非常に現実的な選択であったのだ。
 以上のような藤村の例で見るように、円本ブームによる1920年代、日本の経済的コンテクストの変化は、文学者たちの経済意識を大きく高揚させる契機として機能した。同時にそれは、作家という名の知識人が資本家と労働者の中で自分たちはどちらに帰属する存在かという〈階級性〉にかかわる自己定義の自問に深刻に逢着したことを意味することでもあった。ここで、経済・家庭・階級性の問題、あるいは社会・家庭・個人の問題は、文学者の実存に深く関わる連動事項として改めて露呈されたのである。

研究発表 :
「マグダレナ・ドブロミラ・レッティゴヴァ-:チェコ料理及び文学への貢献」
  アンナ・クジヴァーンコヴァー(チェコ・カレル大学大学院生)
 1620年における白山戦の後、チェコの土地はハプスブルク皇帝のドイツ化の政治に苦しんだ。 チェコの言語は国家行政管理総局、文献、学校、カレル大学及び上流階級間で多かれ少なかれ根絶された。
チェコの民族復興は18から19世紀の間にチェコの土地に行われた文化運動であり、その目的はチェコの言語、文化および国民性を復興させることであった。
 その活動における著名な人物の一人はマグダレナ・ドブロミラ・レッティゴウァー(1785-1845)、多くの短編小説、詩および演劇の女性著者であった。 彼女の執筆の多くが現在では既に忘れ去られているが、彼女の最も有名な本『マグダレナ・レッティゴヴァ-よりボヘミア及びモラビアの娘への家庭料理本、つまりお肉や精進料理についての論文』(『Domácí kuchařka aneb pojednání o masitých a postních pokrmech pro dcerky české a moravské od M.Rettikovy』,1826年) は多くの世代によって知られ、現在でも生きている。 この著書は多くのチェコ伝統調理法(例えば様々なスープ、ロースト、魚や野菜調理及び菓子)を含み、また料理装飾や食品保存、更には一般的な家庭管理などの助言まで含んでいる。この 本の成功により、マグダレナ・ドブロミラ・レッティゴウァーは次の本『結婚の幸福を保障するための若い主婦への助言』(『Mladá hospodyňka v domácnosti, jak sobě počínati má, aby své i manželovy spokojenosti došla』, 1840年)、『マグダレナ・ドブロミラ・レッティゴウァーより子牛肉の嫌い方々への子牛肉についての論文』(『Pojednání o telecím mase. Každému komu se přejídá, věnováno od Magdaleny Dobr. Rettigovy』, 1843年), 『コーヒー及び全ての甘い物』(『Kafíčko a vše co je sladkého』, 1843年)等の執筆に至った。これらの本はすべて若い女性に対し台所での賢い振る舞いまた家庭管理に関する助言を与えるために書かれていた。 但し、これら書物の執筆における重要な点は、中流階級家族にチェコ語を再導入し、またその動きを更に広げる事にあり、その為これらの本は全部チェコ語で書かれたことだった。
 それゆえ、この利発な妙手は従来のチェコ料理として現在に理解される料理を定義しただけでなく、チェコ語の復興にも役に立ったと言える。

「菊池寛の通俗小説における近代家庭の女性」
 朴婤榮(韓国・淑明女子大学校大学院生)
 最近当時の時代を読み取るひとつの手段として注目を浴びている菊池寛の通俗小説は、 様々な形でメディアミックスされて、小説の形をとりながらも大衆に向けての情報の伝達、宣伝、さらに広報のメッセージを含んでいたということはメディアとしての役割を積極的に演じた。特に菊池の通俗小説の核心を成している女性についての描きがどう変わっていくのかを彼の代表作『真珠夫人』(1920)と『東京行進曲』(1929)を中心として見ることによって、近代家庭の中の女性の位置とその変化を伺えることができる。
 菊池寛の通俗小説で登場する女性たちは、近代になって新たに変わってゆく‘家庭’を大きい軸としてその動線が決まっている。 『真珠夫人』と『東京行進曲』二作とも自分が生まれた時から属した家庭から離れ、新たな家庭へ移動すぐ経路を物語っている小説だとみても良い。しかし新しい家庭へ包摂されていく方式には違いがある。 その違いは文化生活の獲得と保障への欲望から生じる。20世紀初、洋式を導入することによって生活が改善しなければならないという文化生活への認識が高まって、それは都市の中産階級の家庭の生活様式として受け入れられた。そしてメス・メディアの発展によってこうしたメディアから産まれる視聴覚コンテンツが‘文化’という名前で提供された。文化というキーワードは当時新中間層もしくは自分が新中間層に属すると思った人たちには消費と娯楽の別称でもあった。 文化生活の確保のために男性によって指定された家庭での居場所を受け入れる『東京行進曲』の女性たちを通じて菊池は、家庭の中に穏やかに包摂された女性だけが教養のある文化生活が可能であるというメッセージを読者に投げる。
 このように『東京行進曲』の女性は『真珠夫人』での女性のように社会への闘争心を持たなかったが、静粛な女性という既存の価値に従うだけで、文化生活ができるようになる。『真珠夫人』の9年後に発表された作品であるが、何の悩みなく家庭という秩序へ入る女性像はむしろ時代を逆行して、正しい家庭作りという教訓を持つ初期の家庭の小説に近いものであった。 ここで重要なのは、菊池寛が描いたのは世態の反映である一方、大衆が見て欲しがる姿であるということだ。小説に描かれた生活と実際の生活の微妙な差こそ、求めることを再現してくれるメディアと作家に対する大衆の忠誠心を高めた。 このような背景で大衆に対する掌握力が強まった菊池は、時代にやや反抗的だった女性を描いたことから発展するどころか、批判的な視線を止めて男性の命令に従って家庭内で位置づけられる女性を描いたのである。これはこの後の昭和期のジャーナリズムの歩みにも示唆する所が大きいと思う。

「国家と家庭と女性―日・韓近代文学における看護婦表象と良妻賢母思想」
李南錦(本学大学院生)
 本発表では、日・韓近代における看護婦表象に着目し、文学作品における看護婦表象と国家と女性との関わりに関して考察することを目的とする。特に、日・韓近代を代表する作家として知られている夏目漱石と李光洙(イ・クァンス)の作品を取り上げ、文学に描かれた看護婦表象と当時の時代言説との関わりを、ジェンダー論的な観点から論じたいと思う。
 論じ方としては、まず、明治・大正期と植民地朝鮮における看護婦への眼差しと歴史について考察する。次に、夏目漱石と李光洙の作品における看護婦表象を分析し、帝国日本と植民地朝鮮社会が求めていた女性像と看護婦表象との関連性を探る。それから、作品分析を通して得られた結果と、看護婦イメージと主婦のイメージが、当時の帝国主義のイデオロギーによってどのように結び付けられていたのかを、「白衣の天使」と「家庭の天使」になった女性像として考え、看護婦表象が「良妻賢母思想」につながっていた力学を明らかにしたい。
 一般的に看護婦を示す「白衣の天使」は、1854年、イギリスのクリミア戦争に参戦し負傷兵を治療したことで「ランプを持った淑女」「戦場の天使」などと呼ばれたフロレンス・ナイチンゲールに由来する。この「淑女」と「天使」という言葉は、ヴィクトリア朝イギリス社会で求めていた主婦にも用いられた語である。「淑女/レデー」という言葉は、漱石の作品にも見られるが、明治・大正期の中流階級の一般婦人に当てられた用語でもある。
 両作家の作品を通して考察される看護婦像は、性的欲望の対象として、芸者のような扱いもされたようである。特に、『明暗』には、当時の「レデー」と「芸者」が区別されないという一般婦人への批判的な言説が見られる。明治・大正期の主婦に求められた「家庭の天使」のような「良妻賢母」のイメージは、「白衣の天使」なる看護婦イメージと重なるが、その背後には、安らぎと癒しを与えるセクシュアルな魅力まで求める男性の欲望が隠されていたといえる。植民地朝鮮でも、同じように看護婦がもつ二重のイメージは一般の主婦にも求められ、主婦は夫に安らぎと癒しを提供する一方で、家庭を管理する「賢母良妻」としての道を要求されていた。
 夏目漱石の『三四郎』や『行人』『明暗』、そして李光洙の『愛』と『愛の多角形』に登場する看護婦表象を分析し、当時の社会的な認識との関わりを考察した結果、日・韓近代における看護婦表象は、性的欲望の対象、誘惑者的なイメージで認識され、一般主婦とは区別される存在として眼差されながらも、一方で、夫に癒しと安らぎを提供するセクシュアルな存在、「天使」のような犠牲と奉仕の精神で、夫と国のために仕える存在としての主婦像にも投影されたことが見出された。これは当時の家父長的なジェンダー秩序が築き上げた良妻賢母思想が、表と裏に二重的な規範を隠して女性に要求されたことを窺わせる。つまり、日・韓近代における看護婦表象が、良妻賢母思想に基づく主婦/妻の表象と結び付いていくポリティックスが見えてくるのである。
 
12月17日(水)  第3日目
09:00-12:30 日本語教育学部会  
             [テーマ]文化を取り入れた総合的日本語教育のための新たなとりくみ
               -TV会議を用いた国際遠隔協働授業とセミナーを通した交流型授業-

              [担当] 森山新(本学)、[司会]石井佐智子(本学大学院生)
【第一部】
<特別企画>
   [会場] 人間文化創成科学研究科棟5階SCS室
講   演 :
「ヴァッサー大学日本語夏期研修:交流を通じた異文化理解」 
ドラージ土屋浩美(米国・ヴァッサー大学)
 ヴァッサー大学は学生数約2500名のリベラルアーツカレッジである。学生は一年間の外国語履修が義務付けられており、現在約90名の学生が日本語を学習している。近年、留学希望者は増加傾向にある。しかし、その数はまだまだ少なく、年間10名に満たないほどである。日本への留学に興味があっても、専攻や副専攻の必修科目の都合で断念せざる終えないケースが多い。そのような学生への留学のオプションとなるように、我々は日本における日本語夏期研修を2006年より立ち上げた。初年は10名の参加者であったが、3年目に当たる2008年にはほぼ倍の18名に膨れ上がり、いまや本学でも人気のプログラムとなった。それと同時に日本語学習継続者の割合も急増した。そのような変化に伴い、我々教師陣も本学での日本語プログラムのあり方の見直しが必要であることを痛感している。グローバル時代に即した日本語教育、そして異文化教育への模索が目下の課題である。
 研修は協定校でもあるお茶の水女子大学で8週間に亘り実施される。日本語初級レベルを終了した学生が、一年分に当たる中級日本語を集中的に学習する。本研修の特徴は、Summer Language and Culture Program というタイトルが示すように、語学研修にとどまらず文化研修をも含む点である。午前中行われる語学の授業の他に、お茶の水女子大学の英語、生活科学、グローバル文化学環の授業に参加し日本人学生との交流を体験する。また、グローバル文化学環の学生とは共同研究プロジェクトも行い、それは研修の評価の一部となっている。共同プロジェクトでの使用言語は日本語と英語である。学生は語学を学ぶだけでなく、共同作業や意見交換を通して、個々それぞれが「異文化」を感じ取り、内在化する。このような交流の形は、異文化教育の視点からも大変意味深く画期的だと感じている。
 本発表は夏期研修の内容説明、およびその分析を主旨とする。学生が研修を通じてどのような「異文化」を学習したか、また研修前と後ではどのような文化に対する意識の変化が見られたかといった点を、研修後におこなった調査アンケートをもとに検証する。また、引率を担当している私自身の内省も兼ねて、今後どのように夏期研修を研修後の正規の授業にも生かし、交流を継続した形にすることができるかという点も考察してみたい。

研究発表:
「Web掲示板と遠隔TV会議システムを利用した授業実践-「言い訳」に注目して-」 
佐野香織 (米国・ヴァッサー大学非常勤講師、本学大学院生)
 本発表は、ヴァッサー大学(米国)とお茶の水女子大学(日本)とのWeb掲示板とTV会議システムを使用した協同授業についての実践報告である。ヴァッサー大学においては、日本語授業(2・3年生・中級)の一部として実施した。本発表では、この授業「言い訳」に関するヴァッサー大生の気づきに注目した報告を行う。
 JFL環境における言語学習では、言語的な使用例、文化的な考え方についての教授は、主に使用されるテキストや資料、およびそれを選択した教師の分析フィルターを通してのものが中心となり、教師からの「知識獲得」型学習に偏りがちであることは否めない。テキストの内容説明や教師の与える例から「日本人は~である」と受け取られ、ステレオタイプを生み出すおそれもある。また、使用する表現・言語形式も、テキストの内容や教師の回答のみが「正答」となりがちであり、学習者自身の気づきを経た考えを生み出すことは困難であるといえる。  
 こうした問題意識のもと、日 本社会に住む大学生とWeb掲示板・TV会議システムといった遠隔リソースを使っての意見交換による、ヴァッサー生の学びに着目した。本発表では、お茶の水女子大学生との意見交換で取り上げられたトピック「言い訳」に焦点をあてて報告する。
 本授業実践の報告を通して、遠隔リソースを使用した語学授業において、日本社会での考え方・日本語での使用例に触れ実際にディスカッションを重ねることで学習者自らの分析を経て気づきを得ることが期待できることを示したい。

*************************休  憩*************************

【第二部】   [会場] 人間文化創成科学研究科棟6階大会議室(607号室)
講   演 :
「文化を取り入れた総合的日本語教育のための新たなとりくみ
-国際交流型授業と国際遠隔協働授業-」 
森山新(本学)
 2001年にソウルにおいて実施された日本語教育国際シンポジウムのテーマで李は総合的日本語教育を提唱した。それを受け、本学大学院主催の「第3回国際日本学シンポジウム」でも「国際日本学との連携による総合的日本語教育」というパネルディスカッションが開催され、それを契機に比較日本学研究センターでは「グローバル時代の総合的日本語教育」という研究プロジェクト(代表者:森山新)を立ち上げた。つまりグローバル時代に求められる日本語教育は「総合性」が求められるということである。
 今や日本語教師は言葉だけ教えればよいという時代は終わった。それは日本語教育能力検定試験の出題範囲を見ても一目瞭然で、日本語教師が言葉だけでなく、コミュニケーション能力、文化なども教える能力が求められていることがわかる。文化も伝統文化を教えるだけでなく、最近では異文化を読み解く能力(文化リテラシー)を教えることも求められている。言わばグローバル時代を生きていくための人間性を教えることすらも日本語教師に求められているわけである。
 李は「総合的」という用語について言及し、①技能の総合化、②認知的総合化、③知的総合化を挙げた。また教授法として国際交流をとらえ「交流型日本語教育」を提唱した。
 交流は文化という先入観抜きに、人間同士の接触により「個の文化」の理解への入り口となる。しかし交流による接触は異文化理解の入り口にすぎない。異文化理解のきっかけとしての「交流」をより効果的にするために「交流」の教授法としての位置づけが求められる。李が所属する同徳女子大学が本学の提案に賛同の意を示し、毎年共催で「日韓大学生国際交流セミナー」を実施しているのも、そのような考え方が背景にあると考えられる。同徳女子大学の学生は、日本の文化を学び、韓国の文化を紹介する国際交流の中で、日本語を学んでおり、日本語にとどまらず、日本の伝統文化や日本人とのコミュニケーションに介在する文化を体験的に学び、さらには自文化を伝え、異文化を読み解く文化リテラシー能力までをも学んでいるのである。
 またTV会議を用いた国際遠隔協働授業も国際間の交流を日常的に行う手段として有効である。本学においては、これまでに釜山外大、ヴァッサー大、台湾大との間で行っている。TV会議システムにおける協働授業は接触がTV会議システムを介しており、音声と画像だけによるという限界はあるものの、人と人とのコミュニケーションの中で言語と文化を学ぶことが可能である。さらに交流に比べ、互いが自国にいながらにして国際交流が可能なこと、互いがホーム&ホームという対等な関係でディスカッションが可能なことなど、直接的な交流に優る長所も有している。しかしながらこうした試みは始まったばかりであり、ここにおいてもその短所を補って最小限とし、長所を最大限生かすための教授法の開発が求められる。
 
「「交流法」による多文化理解の効果と限界について」
李徳奉(韓国・同徳女子大学校)
1. はじめに
 文化を取り入れた日本語教育において、文化トピックの指導やステレオタイプの修正、「個の文化」的文化観の指導などその方法は多数ある。外国の学習者にとって異文化を理解するということは、単なる文化の事情を知ることで達成できることでもなければ、ステレオタイプを修正するだけで達成できるわけでもない。ここでは、総合的な異文化理解学習としての「交流法」を取り上げ、そのタイプ別に効果と限界を点検し、より効果的な「交流法」のあり方について考えて見たい。
2.交流のパターンと形態
 多文化理解のパターンにはいくつかの類型が考えられる。とりあえず、体験型のアプローチは、体験を通じ、感覚化、認知化され、慣習化・生活化していく。また、分析型のアプローチは、文化を構造的に理解し、知識化し文化観を修正していく。三つ目は、多文化型のアプローチで、教養として人間文化の属性を理解し、多文化の体験を楽しむタイプである。
<交流のパターン>
1)文化行事型交流:
2)文化体験型の交流
3)合同学習型:合同セミナー
4)共同体験型
5)個別滞在型
6)移住生活型
7)メディア媒介型
3.学習効果を高めるための「交流法」のありかた
 「交流法」による異文化理解教育は、総合的な体験学習に当たる理想の学習方法ではあるが、必ずしも異文化理解に繋がるとは限らない限界がある。そこで、その限界を乗り越えるためカリキュラム化など補いが求められる。
4.おわりに
 文化を理解するということは、異文化に対する知的理解とともに感性的に好感を覚え、リスペクトの念を覚えることである。この理性と感性の両面性を満たせる方法として「文化体験型交流法」の適用は有効であるが、従来の交流法をより効果的にするためにはいくつかの側面についての修正が求められる。すなわち、カリキュラム化すること、学習者主導型活動にすること、体験中心の活動にすること、文化に対する知的理解を並行すること、身近な異文化適応の体験から始めることなどである。 
 
研究発表 :
多文化理解を目指した体験型交流学習の意義と今後の方向性
―第5回日韓大学生国際交流セミナーを通して―」
西岡麻衣子(韓国・同徳女子大学校大学院生)
 現在のグローバル時代において、私達は多様な文化背景を持つ人々と関わり、有効な人間関係を築き、共生する能力が求められている。多文化を理解し、円滑にコミュニケーションするためには、情緒・認知・行動の面において様々な態度や能力が必要とされるが、体験型交流学習は学習者の多文化理解を促すのに効果的な総合的学習方法であることが期待される。
 筆者は、2008年8月5日から8月12日まで韓国のソウルで開催された「第5回日韓大学生国際交流セミナー(以下交流セミナー)」にアシスタントとして参加し、両国の学生が体験に基づく共同研究と研究生活の中で、どのような変化や気づきがあったのかについてお茶の水女子大学と共同質問紙調査を行い、その文化理解の変容を分析・考察した。
 その結果、交流セミナー前後において有意差が認められ、文化学習としての交流セミナーの有効性が確かめられた。さらにその詳しい変化の内容や要因を、自由記述式質問紙と非公式のインタビューや観察記録をもとに分析した結果、情緒面からは「不安感の軽減」「偏見の除去」「共感的理解」、認知面からは「自文化への気づき」「自他文化の共通点と相違点の認識」「個の多様性の認識」、行動面からは「積極的行動」「友人関係の構築」「傾聴」などの多文化理解を促す態度が確認され、体験型交流学習の意義が認められた。このような多文化理解態度の形成は、文化リテラシー、文化背景や文化の深層を掘り下げていく力(文化差の気づき→各文化独自のコミュニケーションスタイル発達の理解→社会システムの解明→環境的・歴史的影響の認識)の形成へと繋がり、体験型交流学習の可能性が見出された。しかし、少数ではあるが韓国側の学生の中には「やはり日本人と親しくなるには時間がかかる」などステレオタイプを強めてしまったり、個人から受けた印象を一般化してしまう記述も見られ、体験型交流学習の危険性も指摘された。
 以上の分析を踏まえ、最後に今後の課題として、「交流の環境の整備」「振り返りの効果的な設定」「教師やTAの関わり方」などを検討する。

「国際遠隔協働授業は文化を取り入れた総合的日本語教育として有効か
-JFL韓国人日本語学習者の授業評価を中心にして-」
小林智香子(本学大学院生)
 グローバル時代を迎えた現在、日本語教育の流れは言語のみに焦点を当てた教育ではなく、文化を取り入れ、かつ実践的な「総合的日本語教育」へと向かいつつある。李は「総合的日本語教育」について、「総合化」という名の下に日本語教育分野に隣接する幅広い学習領域の内容を構造化し、連携することにより学習効果を高める試みを提唱している(李2004)。その背景として、1990 年代後半より「日本事情」の授業において日本文化の教育内容を固定的・限定的に一方向的な講義形式で教えてきた事への批判が高まったこと、さらに、従来の言語要素を重視した日本語教育から学習者が言語の背景にある文化的背景やコミュニケーション方略を理解し、異文化に接触する姿勢を育成する異文化理解教育の必要性が高まったことが挙げられる。
 本研究は、文化を取り入れた総合的日本語教育が日本語学習者の日本文化理解を深めるのか、日本語学習者は日本語学習と日本文化学習の融合という観点からこの授業をどのように評価するのかを実践的に検証することを目的とした。
 本研究の分析対象はテレビ会議システムを用いた日韓国際交流型授業である。この授業には日韓双方から学生が参加したが、本研究では韓国側参加者(釜山外国語大学校「韓日遠隔講義」を受講する学生29名、以下「学習者」とする)を対象とした。調査方法は5段評定法による質問紙、記述式アンケート、及び構造化によるインタビューである。質問項目は「ツール」、「日本語学習」、「総合的日本語学習」の3つの指標を中心に作成した。
その結果、「ツール」については、学習者は言語学習・文化学習のツールとしての遠隔授業を高く評価していることが明らかになった。また、学習者は遠隔授業において、そのツールの質すなわち画像・音声の重要性を認識し授業理解に影響があるととらえていることが示された。TV会議のツールを用いて総合的日本語学習の授業を行う場合、このツールの質を高めることが授業理解の深化にとって不可欠な要素だと考えられる。
 「日本語学習」については、TV会議のツールを用いた授業は、言語4技能のうち「聞く」「話す」能力について、「読む」「書く」能力よりもその向上への評価が高いことが示された。さらに、学習者はこの日本文化学習と日本語学習とを融合させた授業について肯定的で高く評価していることが明らかになった。受講する中で言語と文化のつながりを実感していることが推測される。
 「総合的日本語教育」については、学習者は日本文化を日本人と学ぶ学生の協働活動による授業について疑問点を日本人との質疑応答によってその場で解決できること、授業における発表や討論により日本文化に対する理解や日韓での差異、個人での文化認識の多様性を実感しながら理解を深化させることが可能であると考え、高く評価していることが明らかになった。また、この授業を日本文化に関する新たな知識の獲得、多角的視点を涵養する場と考え、継続的な授業参加への希望が強いことが示された。 以上のことから、国際遠隔協働授業は、文化を取り入れた総合的日本語教育として有効であることが明らかになった。
  
09:30-12:10 日本思想部会  [会場]文教育学部1号館8階803号室
               [担当]頼住光子(本学)、[司会]斎藤真希(本学大学院生)
【第一部】 「食・もてなし・家族」 
講   演 :  
「仏教における「食」」
頼住光子(本学)
 仏教が日本文化に与えた影響は多大なものであるが、食文化もその例外ではない。食材にしても調理方法にしても食事の作法にしても、広く深く仏教は影響を与えている。一例を挙げれば、茶を飲むという習慣は、日本臨済宗の栄西が中国からもたらしたものであるし、健康食、スローフードとして注目されている精進料理も、本来は僧侶の摂る食事であった。食事の前に手をあわせ合掌するのは、修行僧の食事の作法に由来する。本発表においては、日本の食文化に与えた仏教の影響を考える前提として、仏教においては、「食」というものはどのように考えられてきたのかについて考えてみたい。
 まず、仏教の「食」を考えるにあたってまず確認しておきたいのは、仏教においては食欲をはじめとする欲をどのようなに位置付けているのかという問題である。仏教では、坐禅瞑想をはじめとする修行を通じて開悟成道することが目指される。その際、人間のもっている様々な欲望は煩悩として否定され、煩悩から解放され、心身ともに清浄を達成しなければならないとされるが、心身の健康を維持し、修行を続けるために最低限必要な食欲を満たすことは認められている。認められていないのは、欲望のままに過度に食べすぎたり、食について選り好みをして美味を求めたりという、「食」に対する執着である。つまり、執着なく与えられた最低限の食物を摂取するというのが、仏教の「食」に対する基本的な姿勢なのである。
 最低限という制限を越えた場合、その食に対する欲望は、煩悩として否定される。煩悩は執着であり、執着は修行を妨げる汚れである。仏教の基本的な存在論は、無我(無自性)、無常であり、すべての存在者(諸法)は、他のものとの関係において今ここで一時的に、つまり仮のものとして現象しているに過ぎず、それゆえに、その仮のものを実体化して、それがあたかも不変のものであるかのように考えて執着することは、無我(無自性)、無常の教えに反することになる。それ故に、執着としての欲、すなわち煩悩は否定されるのである。諸存在を実体化して執着する煩悩は、生存維持のための単なる欲とは性質が異なるものと捉えられるのである。
 以上のような仏教の「食」に対する基本姿勢をふまえ、発表においては、食を得るための「托鉢行」の意味、肉食の容認と禁止、禅宗における「食」等の問題についても言及し、多様な側面から「仏教」と食について検討したい。  

「神道における「食」」
高島元洋(本学)
(1) 「食物」と宗教

(2) 神道における「食物」の意味
  Ⅰ 伊勢神宮における「食物」の信仰―祭神と神饌
  Ⅱ 【祭神】食物が「神」となる
  Ⅲ 根源的な「神」観念(生命力・生生力)の成立
  Ⅳ 【神饌】「神饌」としての食物

(3) 自然(食物)と宗教(神道)はどのように関連するのか(【祭神】ⅡⅢ)

(4) 宗教はいかにして自然を制御するのか(【神饌】Ⅳ)

「日本文化論の中の「家族」」
張彦麗(中国・北京日本学研究センター)
 戦後日本の歴史を振り返ってみると、「日本文化論」は「現代日本」という「国家」のアイデンティティーを考える時に重要な役を演じたものである。それは二重の意味においてである。一つは戦前天皇制国家イデオロギーに対する反省、もう一つは戦後新しいナショナリズムを模索することである。これに関して、青木保は『日本文化論の変容』の中で、否定的特殊性の認識、歴史的相対性の認識、肯定的特殊性の認識、特殊から普遍へと幾つかの段階を分けて、その議論の移り変わりが戦後日本の自己認識に如何に緊密に織り込み、また、如何なる問題性を孕んできたかを冷静に提示してくれた。一方、ハルミ×ベフのように、日本文化論を一種のイデオロギー的な作業と見なし、その限界性が、日本的特殊主義を越えられないところにあると激烈に批判する態度を取った研究者も少数ではないのである。
 日本文化論を戦後日本や戦後日本人の自己認識に深く関わっているという前提から、日本的特殊主義を言う場合、常に言及されたのは日本人の集団主義の特性である。しかも、その集団主義の文化的淵源を歴史上の日本的な家族関係に遡ることが多かったのである。
 「家族が小さな政治体である。」「広義では、家族と国家は同一であり、皇室はすべての日本人の家族を分家とする本家ということになる。」「家族は社会道徳の訓練の場なのである。さらに家族は個人であるよりも、むしろ社会の単位とする傾向がある。」「家長の地位は、家族においては中心的であるが、外部にむかっては、国家の最末端に位置し、「公的」な役割を果たしている。家族は、政体に対立せず、その中に統合され、ある程度まで政体(の方針)によって貫徹されている。」「家族では、忠誠のかわりに、子としての親に対する恭順(孝)が最高の徳であるが、しかし、その機能は同じである。それは、集合体の首長にたいする態度と同じ態度、また集合体の目標にたいする同一の中心的関心をいう。」(R・N・ベラー 『徳川時代の宗教』)
 このような「家族国家」は「制度的にもイデオロギー的にもこの頂点(天皇制官僚機構)と底辺(村落共同体)の両極における「前近代性」の温存と利用によって可能となったのである。」権力と恩情の即自的統一が、このような「家族国家」において、「伝統的人間関係の「模範」であり、「国体」の最終の「細胞」をなして来た。それは頂点の「国体」と対応して超モダンな「全体主義」も、話合いの「民主主義」も和気あいあいの「平和主義」も一切のイデオロギーが本来そこに包摂され、それゆえに一切の「抽象的理論」の呪縛から解放されて「一如」の世界に抱かれる場所である。」(丸山真男 『日本の思想』)
 以上のように、家族という場は日本的集団主義を育成する温床と見なされ、日本の政治システム、社会構造、日本人の国家認識に多大な影響を与えた。しかも、このような作用は必ずしも敗戦と民主主義改革によって、完結になるとは言えなく、それより、むしろ新しい国家を求めようとする戦後日本人が当面している重苦しくて大きな課題の一つとなったのである。
 こうした問題意識から、戦後日本文化論の代表的なテキストも踏みながら、「現代日本」にとって、「家族」とは何かというテーマを考えてみようと思う。  

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【第二部】 「大学院生自由課題発表」 
研究発表 :
「神と妖怪――柳田國男『妖怪談義』の中で語られるお化け――」
大内山祥子(本学大学院生)
 『妖怪談義』は、柳田國男が明治末から昭和初期にかけて発表した、天狗や川童のような妖怪や怪異を対象とする論稿をまとめた書物である。妖怪とはいわゆるお化けのことである。柳田によれば、人間の持つ恐怖や畏怖の感情が基本にあって、それがさまざまに変化してお化けを生み出すようになったという。柳田にとってお化けを研究することは、日本人の精神構造や社会の変化を読み解くことであった。
 柳田の妖怪観の特徴は、妖怪を神の零落した姿として捉える点にあるとされている。柳田によれば、初めは神として畏怖されていたものが、その信仰が廃れるに従って恐れの対象としての妖怪となり、やがては人間に退治されるような滑稽な存在とされるという、「ばけ物の進化過程」があるという。この「妖怪=神の零落した姿」という妖怪観に対しては、さまざまな疑問が投げかけられている。これまで、あたかも柳田の妖怪観は「妖怪=神の零落した姿」という図式に集約されるかのように論じられてきている。しかし、必ずしも『妖怪談義』の全ての小論において、「妖怪=神の零落した姿」という妖怪観が一貫してつらぬかれているわけではない。「妖怪=神の零落した姿」という妖怪観は、柳田にとっての一仮説であろう。
 柳田が妖怪に関心を持ったのは、山男や山女のような山人がきっかけではないかと思われる。『妖怪談義』全体を通してみると、妖怪を生み出す人々の精神よりも、山人の実在を解き明かす存在としての妖怪に重点をおいて執筆された時期があることが分かる。山人の実態に関心を向けていた頃の小論では、妖怪が人々のどのような精神が生み出したものであるかについては論じられず、山人が妖怪に重ね合わされた可能性について述べられている。この小論のように、『妖怪談義』では、常に「妖怪=神の零落した姿」という枠組みが存在しているとは言い切れない。
 しかし、柳田が神→妖怪という妖怪変化のプロセスを重視していたことは事実であろう。柳田が、「ばけ物思想の進化過程」を「我々の妖怪学の初歩の原理」とみなすまでに、もっとも大きな示唆を与えたのはJ・フレイザー『金枝篇』であると思われる。『金枝篇』の王殺しのテーマこそが、古い信仰が力を失った結果、神が零落して妖怪となるという認識の源となった。『金枝篇』は、その後柳田の祖霊研究にも関連していく。
 しばしば祖霊信仰の文脈で捉えられる田の神・山の神去来信仰は、川童の民俗の考察と、J・フレイザー『金枝篇』の受容から導き出されたものである。柳田にとっての田の神・山の神の原型は川童であった。田の神・山の神の変化としての川童は、その後祖霊信仰の一つとして展開していくこととなる。このように、柳田の祖霊研究という切り口から、『妖怪談義』を読み解くというのも重要な視点であり、今後の課題であろう。  

「『日本霊異記』についての一考察」
尾崎円郁(本学大学院生)
  『日本国現報善悪霊異記』、通称『日本霊異記(以下『霊異記』)』は一般庶民の仏教教化を目的として編纂され、「因果の理」すなわち善悪の行いに対して何らかの報いがもたらされるということを説いた仏教説話集である。ここで説かれる具体的な善悪の行為は当然ながら仏教の道徳観念に基づいたものであるが、仏教が古来の土着信仰にとってかわるような影響力をいまだ持ち得ない時期において、民衆には馴染みの薄い新しい観念であった。『霊異記』の説話には編者景戒の一貫した世界観・人間観が現れているが、今回は「私度僧」が登場する説話を検討することで、僧と仏法の関係を景戒自身がどのように捉えていたのかを考察する。
 当時は出家に国家の承認が必要だったのだが、無許可で剃髪して僧形になる私度僧が後を絶たず、私度僧は税も納めない浮浪人と見なされがちであった。『霊異記』における私度僧の多くも罵られたり、打たれて追い出されるなど迫害されるケースが多いが、かれらを迫害した者には間もなく種々の悪報が訪れる。例えば優婆賽を捕えて打ちのめしたところ、空高く舞い上がり地面に落とされて死んだり(下‐14)、物乞いに現れた僧の法華経を読む口ぶりを真似して嘲ったとたんに口が歪んで元に戻らなくなる(上‐19)などの悪報譚がある。各地でこれらの説話を語ったのが当の私度僧たちであり、景戒自身もかつて私度僧であった可能性が指摘されていることから、かれらが自己防衛のために語った物語を採用したのだろう。『霊異記』に登場する私度僧のほとんどはみすぼらしい乞食僧で、中には法要を頼まれた家の蒲団を盗もうとする者までおり(上‐10)、聖人には程遠い人物として描かれている。それでもかれらを害すれば様々な悪報を受けるのである。しかし私度僧を全面的に擁護しているわけではないということは、人を騙して財貨を掠め取り、挙句の果てには寺の柱を燃料に使った私度僧がその報いを受けて死ぬ話(上‐27)が収録されているのを見れば明らかである。また、私度僧ではないが、聖人を誹った寺の僧が悪報を受ける話はいくつか存在し(中‐7、下‐19など)、出家者であることが仏の加護を受ける直接の要因とはみなされていない。
 以上のことを踏まえると、景戒は私度僧という身分を特別視していたのではなく、かれらが守護されるのは経を暗誦して仏法を伝道するという性質によるものと考えていたのではないだろうか。私度僧が生活のために経を読誦するのが結果的に一般庶民へ仏教を伝播する役割を果たしており、そのためにかれらは仏法の伝道者とみなされるのだ。私度僧を害することは仏法を侮辱することと同等と考えられるゆえに、かれらを害した者は様々な悪報を受けるのである。そして寺を燃やした似非坊主は、仏教の伝道者としての役目を果たさないどころか仏法を侮辱したので、悪行の報いを受けて死に至ったのである。
 
On the medical paradigm
Stoics and Buddhists
A comparative approach

Laurentiu Andrei ローレンティ・アンドレィ
(仏国・ブレイズパスカル クレルモンフェラン第二大学大学院生、本学大学院留学生)

※発表言語:英語、フランス語通訳:伊藤みずほ(本学大学院生)
Taking as a starting point the reality of suffering in the world, Stoics and Buddhists developed technologies or methods designed to give human beings the means to liberate themselves from suffering. As they had an enduring echo and their influence is still alive in both, what we roughly choose to call, Western and Eastern cultures, these doctrines could be regarded as two representative ways of dealing with the problem of suffering. This essay tries gropingly to stress one of the possible ways of allowing a comparison between Stoicism and Buddhism from this perspective. In the context of their time, the Stoic and Buddhist methods were of medical inspiration. Thus, a medical paradigm is at work in the conceptual structure of both Buddhism and Stoicism. Taking into account the psychosomatic dimension of the human being, they tried, as a physician would, to find out the cause of the illness and to ascribe the appropriate medicine. Nevertheless, the “patient” was not passive: Stoicism and Buddhism emphasised the importance of the personal responsibility and the personal engagement of each and every individual in his liberation from suffering. Personal engagement, here in question, is a synonym of a special kind of effort oriented towards the self. Therefore, there exists a necessity for a comparative enterprise concerning these doctrines, to question the notion of self in its various aspects.
  
「幕末期における武士階級の倫理思想―幕末の社会情勢との関連を中心に―」
李斌瑛(中国・北京日本学研究センター大学院生)
はじめに
幕末武士の行動を考える視点:
・政治イデオロギーの形成と発展(後期水戸学よる尊攘論など)
・志士の活動の理論的根拠(吉田松陰の草莽崛起論など)
・下級武士論(服部之総らの「同盟」論、奈良本辰也の「郷士=中農層」論など)
・志士の運動形態を類型化し、全体的経路を分析するもの
・志士の活動の歴史的評価
・儒学、陽明学などの影響
・武士階級の倫理、法律、教育などの影響
…など
本報告の研究対象は幕末期において実践的な変革に身を投じた武士に限定する。
研究視点:幕末時代の社会情勢を背景に、従来の武士道的倫理思想や徳川時代の儒教的士道の影響を考えつつ、幕末期における武士階級の倫理思想を考察したい。

キーワード:幕末 武士 倫理思想 武士道 士道 天下

一、武家の伝統から生まれた性格
幕末の動乱により、国内においてダイナミックな戦国状態が再現し、幕末武士の行動に武家社会の伝統的な倫理が潜んでいる。
・軍事機能の重視と実力主義
・武士的個人主義の復興
・名誉の重視
・自己救済の原理

二、儒学的士道の教養による影響
 文治官僚化した武士が再び武職への回帰を始めたとはいえ、徳川三百年の儒教的士道の洗礼を無視してはならない。それに幕末武士は幕藩体制の家臣団の中で育った以上、戦国武士のように自由勝手に活動できる余地はなかった。
・士道的忠誠観
・絶対的忠誠から生まれた責任感
・儒学の教養と大義名分論

三、対外的危機意識から生まれた社会風潮
 列強の外圧を目の前にして、武士階級では始めて藩の存在を超えた「国」と「天下」の観念が生まれた。さらに「タテ」の身分格式を否定し、「ヨコ」の結合を求めた。
・処士横議と志士の発生
・「天下」の倫理
・「タテ」の構造から「ヨコ」のつながりへ

おわりに
 

(2008/12/02up、2008/12/09最終更新)