岡崎眸(お茶の水女子大学)

内容重視の日本語教育

−多言語多文化共生社会における日本語教育の視点から−

岡崎眸(編)科学研究費補助金研究成果報告書『内省モデルに基づく日本語教育実習理論の構築』322-339 (2002)【一部加筆修正】

1.はじめに

 「内容重視の日本語教育」は、第二言語を学ぼうとする一人一人は具体的な生きる場所を持っていて、そこでよりよく生きていくために日本語の学習に向かっているのだという現実認識から出発する。日本語学習が目的なのではなくそれはあくまでも手段であると考える。そこでは、日本語を使って学び手が実現したいことを「内容」としてまず設定し、それにあわせて日本語の言語項目を決めるという方法が採られる。

 それでは、多様な言語・文化背景を持つ外国籍住民が地域に根付く、つまり、日本国籍住民と共に地域社会を構成していく力を創り出すことを日本語学習の目的とした場合、内容重視の日本語教育はどのように具体化されるだろうか。外国籍住民の地域への根付きは、彼らの多様な言語・文化背景が尊重されることなしには実現し得ない。また、彼ら自身が、単一言語・単一文化を志向する社会ではなく多言語・多文化共生を志向する社会を創造する取り組みの一方の担い手となることを意味する。それは、日本語習得という観点からは、接触場面における日本語(「共生言語としての日本語」、以下では単に「共生日本語」と呼ぶことにする)の創造の営みに非母語話者として主体的に参加していくことに他ならない。

 この点から日本語学習における「内容」を考えると、内容自体がこれまでの内容重視で扱われてきた「専門」や「教科」という「内容」から大きく転換せざるを得ないことが分かる。「共生日本語」は母語話者の頭の中に内在化された日本語ではなく、母語話者と非母語話者の間で交わされるやりとりを通して場所的に創造されていく日本語である。したがって、接触場面におけるやりとりを通してそのプロセスの中で新たに生み出されるものが「内容」であり、「言語」である。例えば、やり取りを通して、今までは気づかなかった自分のものの見方や考え方に気づいたり、自分とは違う相手のものの見方や考え方への気づきがあったり、また自分のものの見方や考え方が変化したりすることへの気づき・自己成長の実感があったりする。こうした気づきはやり取りをする双方のそれぞれの側に不断に生み出される。つまり、双方の各々が元々持っていた自分の文化的枠組みに気づき、同様に相手の枠組みを知り、それぞれをつき合わせることによってどちらの側も第三の枠組みを自分なりに創り出していく。したがって、元々の自分に気づいたり、相手を知ったり、新たなものを創造したりすることが獲得が目指される「内容」であり、そうした内容を言語的に担うのが共生日本語である。つまり、共生日本語は、双方の文化に気づき、受けいれ、新たな文化の枠組みを自分に合った形で創造していくという「内容」の実現を担う言語である。

 本稿では、第一に、日本語教育をめぐる状況の変化を「学習者の多様化」(1980年代)から「定住外国人の増加」へとして捉え、現在進行しつつある日本社会の多言語化・多文化化への動きの実態を概観する。次に第二として、定住外国人をどのように地域社会に受けいれるかを考えるために、まず定住外国人と共に創る地域社会を言語権の保障される社会として規定し、言語権の内容を、言語間共生と言語内共生(岡崎1994)という観点から検討する。そして、それに踏まえて、日本語教育がどのように寄与できるかを考える。第三に、日本語教育の新たな展開である共生日本語教育の鍵概念として「内容重視の日本語教育」における「内容」の転換の必然性を主張したい。最後、第四に、共生言語の複数形成と日本語教育の関わりをケースに基づいて述べる。

2. 「学習者の多様化」から「定住外国人の増加」へ

1980年代の日本語教育は「学習者の多様化」をキーワードとして多様な学習者に対する多様な対応を基調として、特に複数の教授法を組み合わせたコースデザインの柔軟化が追求された。しかし、1990年代に始まり現在も進行している定住外国人の増加という事態を受けて、日本語教育は再度新たな局面に入っていると言える。

2.1.外国籍住民の増加

 日本国内在住の外国人はこの10年間で飛躍的に増加した。外国人登録者数で見ると、外国籍住民は約7割増え、2001年現在、全人口の1.2%、180万人を数えるに至っている。この増加の速度は諸外国の例と比べても速い。しかも、増加した7割の内訳を見ると、従来多かった留学生や外資系企業関係者といった一時的な滞在者ではなく、結婚によって来日した日本人配偶者や労働目的で来日した日系二世や三世などの新来の外国人と言われる人達で占められていることが特徴的である。これらの人々は中長期の滞在あるいは永住を志向するグループとしてまとめられる。彼らの殆どは、地域に住み、地域に職場を持ち、子ども達を地域の学校に通わせる、いわゆる地域住民である。神奈川県の大和市や愛知県の豊田市などを始め一部の地域では既にそのような定住外国人と共に生活する社会へと移行しており、他の多くの市町村も早晩同じ道を歩むことが予想される。

2.2. 進まない地域における「内なる国際化」

 ところが、外国人の増加という現実だけが進行し、受けいれ側の意識がなかなかそれについていかないというのが現状である。各市町村レベルで設置されるようになった国際交流協会や国際化協会などでも受入側の日本人対象としては専ら海外との姉妹都市交流など外に向けた事業を行い、地域で増加しつつある外国人参入者との交流事業などの「内なる国際化」は日本語支援にほぼ限定され、両者の交流事業は低調であると言えよう。地域社会との関わりという点から言うと、留学生や企業派遣で来日し一時的に滞在するビジネスパーソンなどの一時的滞在者とは違い、日本籍住民と共に地域社会を構成していくメンバーであり、社会全体に及ぼす影響も決して小さくはない。定住外国人をどのように地域に受けいれるか、活発な議論が重要であり、それらを通して社会的なコンセンサス作りが課題である。

3.定住外国人をどう地域社会に受けいれるか

 地域の中に増えてきている定住外国人をどう受け入れるかという問いに対する一つの答えは彼らに同化を求めるものである。国内においては明治以来アイヌや沖縄の人々に対して行ってきたもので、その意味では馴染みのある受け入れ方法であると言えよう。為政者のみならず巷でも、「日本社会は単一言語・単一文化の国」として形容されることが未だに多い。例えば、日本語や日本文化が分からない外国人は日本社会で不利益を受けても仕方がないと考える。これなどは、「郷に入れば郷に従え」式の、日本語・日本文化への同化要求の典型であろう。

 定住外国人を地域社会に受けいれるに当たって、このような同化要求を基本とするのか、それとも新たな第二の方法を追求するのかは、第二言語としての日本語教育の任に当たる私達にとっても重要な意味を持つ。どのような日本語教育をするのかを根本において規定するものだからである。今日・明日の授業の教案に直接的に反映するものではないかもしれないが、授業の素材として何を選びそれらをどのように学び手に提示するか、あるいは、日本語教師として学び手にどう対峙するか、という態度や姿勢を根本的に規定するものと考えられる。

そこで、どう受けいれるかについて議論をする前に、その前提として、定住外国人と共に創る地域社会はどうあればよいか、どのような地域社会が望ましいかについてまず考える。

3.1.新たに参入してくる人々

新来の定住外国人と共にどのような地域社会を創るかという場合、その構成員である受けいれ側と参入側についてまずみて行く必要がある。受けいれ側とは、元々から住んでいる人々であり一般的には日本語母語話者と呼ばれる人々である。この人々は、先に少し触れたように、いわゆる旧来の外国人(オールドカマ−)といわれる在日朝鮮人や中国人、台湾人に対して彼らの多様な言語・文化背景を認めず、極めて強い同化要求を基本に据えた受け入れをしてきたという過去を持つ。

 他方、参入側とは、新たに地域社会に参入して来た人々、いわゆる新来の外国人(ニューカマー)を指す。この人々は、先に述べたように、中国からの帰国者に加え労働目的で来日した日系の南米人や結婚によって来日した日本人配偶者など様々な背景を持つ。多くは非永住型の定住者というくくりに入る。

(1) 外国人とは?

 新たに地域に参入してくる人々はどういう人たちだろうか。受け入れ側として私たちは新しく参入してくる人々をまとめて「外国人」と呼ぶ。その場合の外国人とは日本語ができず日本文化に馴染みのない人々として一つにくくられる存在である(杉原 2002)。しかし、少し考えてみると分かるように、日本語ができない、日本文化が分からないという側面だけでなく、彼らは自分の出自の言語や文化(ここでは母語・母文化と呼ぶ)を持っているという積極的な側面も持っている。出自がどこで、どのような言葉を母語として話すのかに注目すると、もはや単なる外国人ではなく、中国人、フィリピン人、イラン人というように日本人同様・・・人と称さなければならなくなる。もちろん、母語や母文化は必ずしも出身国と同じではない。例えば、中国出身だからといって誰しもが中国語が母語であるわけではなく、中国国内の朝鮮族の場合は朝鮮語が母語であり、ウィグル族の場合にはウィグル語が母語であることが多い。一つの民族が必ずしも一つの国家を作っているとは言えないからである。

(2) 言語、文化とは?

 「民族」は、グローバライゼーションの進行に伴って逆に表面化し、時代のキーワードともなっている。人種が肌の色や髪の色などのように身体的・物理的に特徴づけられるのに対して、民族はそうした肌の色や髪の色ではなく言語や文化、歴史など心理的・社会的に特徴づけられる。例えば中国国内に住む中国人と朝鮮人は同じモンゴル系の黄色人種に属するが、どのような言葉や文化、歴史を共有しているかによって、漢民族と朝鮮族に分かれる。ある民族を民族たらしめるのは言語と文化を共有しているという事実であって、それがなくなれば民族として成立しない。

 この場合の言語や文化とは何だろうか。言語は人が周りの世界を切り取る時の切り取り方であり、文化とは事物や出来事、人々の行動などを価値付ける基準としてここでは定義しよう(朝倉1997)。文化をもっているから、人は自分の周囲の事物や出来事などを秩序づけて理解することができる。ある事物、例えば今は崩壊し存在しない世界貿易センター、ある出来事、例えば9.11世界同時多発テロ、あるいはある行動、例えばアメリカによるアフガン爆撃などなどに対して、自分のもっている文化がそれらの解釈の枠組みを与えてくれる。したがって、文化は、人にとっていわば羅針盤のようなものである。依って立つ文化(つまり、母文化)が曖昧になると、人は故障した羅針盤を持つ船のようなものとなり、方向を定めることができず漂ってしまう。

 他方、言語は文化と切っても切り離せない関係にあると言われるが、先に述べたように、狭くは周囲の自然や社会という世界を切り取る切り取り方ということができる。例えば、イヌイットは雪に対して幾つもの名称をもっているという。雪という自然現象を極めて複雑なものとして分けて見ることができる。ところが日本語ではそれほどではない。あるいは逆に日本語では、雨に恵まれた自然であるということも関係していると思われるが、雨については、霧雨、小雨、小ぬか雨、五月雨、などなど豊富であり、細かく雨を識別して見ることができる。また、共通日本語では兄・弟、姉・妹というように年齢が上か下かで分けて指すのに対して、例えば徳之島方言では英語のように男の兄弟(イイリ)、女の兄弟(ウナイ)としてまとめて指す。このような例に見られるように、それぞれの自然や社会をどういうふうに切り取ってくるのかを言語が規定し体現していると言えよう。

 こうした言語や文化は生得的なものというより、人が家庭や家庭と共にある社会の中で成長し社会化していく過程で周囲の人々との間で共有し内在化しつつ、母語・母文化として一人一人の中に形成されていくものと考えられる。母語・母文化を持っているということは、人がある社会の一員としてその中に確固とした位置を占めていること、及びその社会が社会として機能していることを意味する。

 以上のことから、人にとって、母語や母文化は、その人の生命活動の中核となるものであり、極めて重要なものだということが分かる。新たに地域社会に参入してくる人々は、一人一人、このようなその人にとっては掛け替えのない母語や母文化を身につけているのである。大切な点は外国人と私達が一くくりにする人々はこの母語や母文化が一人一人違い、またそれが日本語や日本文化ではないということであろう。

3.2.言語権の保障される社会

 この点を踏まえると、地域に新たに参入してくる定住外国人は単に日本語や日本文化が分からないという、日本語非母語話者としての側面だけでなく、彼ら固有の言語や文化を持っている側面にも同じように注目しなければいけないことが分かる。様々の言語や文化背景を持つ人々を地域社会に迎えるに当たっては、当該民族グループの数が大きかろうが小さかろうが、本質的にはどの民族グループにおいても、彼らの母語や母文化の尊重が基本に据えられなければならない。言い換えれば、同化要求に基づいた「単一言語・単一文化」志向ではなく、多様な言語や文化背景が尊重される「多言語・多文化共生」を志向する社会が望ましい社会のあり方と言えよう。

(1) 言語間共生と言語内共生

 多様な言語・文化背景が尊重される社会とは、図式的に言うと、如何なる民族集団も自分たちが欲するならば母語や母文化を保持し発展させることができ、その下で、異なった言語や文化を持つ民族集団同士の交流を媒介する言語や文化が不断に創造される過程を持つ社会ということができる。岡崎(1994)は前者の言語のあり方を言語同士が共生するということから「言語間共生」と呼び、後者の過程を、異なった母語話者同士の共生を媒介する言語へと言語自体が変化すると言う意味で「言語内共生」による「共生言語の創出過程」と呼んでいる。つまり、日本語や中国語、ポルトガル語といった幾つもの言語が日本という地域社会の中で相並んで使用されることによって多数の言語が共生し(言語間共生)、同時に、幾つもの言語がその言語の母語話者だけでなく非母語話者によっても使われることによってその言語の言語内共生が進行し共生言語として創造されていくと考える。この二つ(言語間共生と言語内共生)は相互に連動して進み、どちらか一方だけというようにはならない。

 どのような社会においても、そこに住む人々の人権の保障が最大の課題である。どれほど一人あたりの年間所得が高くても、人権が軽んじられている社会はよい社会とは言えない。また、人権はすべての人に等しく認められなければならず、平均値は意味がない。元々からその社会に住んでいる人であれ、あるいは新しく参入してきた人であれ、何人も人権を持ち、それは何によっても制限されることはない。現在のように地球規模で国境を越えて人々が移動する時代においては、特に文化間を移動することによって問題の生じる人権、新たな移住先の言語を習得したり自分の出自の言語や文化を保持し発展させたりすることに関わる人権(linguisitic human rights)の保障は、地球上のどの地域においても最優先課題の一つでなければならない。そうであるが故に、それらの権利は世界人権規約や移民条約、子どもの権利条約などの国際規約によって一つ一つ世界的に確認されてきたのではないだろうか。(また、朝日新聞の2月24日付の朝刊によると、「世界母語の日」が国連で制定され母語の保護が目指されているが、6000言語のうちその半数が絶滅の危機にひんしているということである。)

 以上まとめると、多様な言語・文化の尊重とは、言い換えれば、言語権の保障であり、それは、言語間共生と言語内共生という二つのレベルの共生を推し進めて行くことに他ならないと言える。以下では、言語権の保障、つまり、言語間共生と言語内共生の推進、とはどういうことなのか、それのために何が必要なのか、日本語教育とも関連させながら考えてみる。

(2) 誰もが自分の母語が使える

 まず第一に、日本語を母語とする人々だけでなく、その他の言語を母語とする人々も自分たちの母語が使い続けられるしくみの構築が必要である。家庭においてはもちろんのこと、学校や職場などの公共の場においても様々な言語の使用が奨励される「空気」とそれを尻押しする制度づくりが重要である。日本語に加えて幾つもの言語が相並んで自由に使われる社会であって始めて、どの人の言語権も保障されていると言える。

 日本社会の現状はどうだろうか。このようなことは全くの夢物語としか言えない現実がある。家庭、学校、職場、どこにおいても使われている言語は日本語である。というより、それについて誰も疑問を持たないと言った方がよい。つまり、母語使用に関する限りは、日本語母語話者だけが言語権を保障され、他の言語の母語話者については何らの手だても講じられていない。東京近郊の松戸市在住の外国人配偶者を対象とした調査によると、家庭での使用言語は多くの場合日本語であることが報告され、特にアジア圏出身者の場合は親の日本語能力の如何に関わらず一律に日本語が使われているという(伊藤 1998)。また、小中学校で学ぶ日本語非母語児童生徒の母語としてはポルトガル語や中国語などが多いにも関わらず、総合学習の「国際」などで実際取り上げられている言語は一様に英語である。英語が対象とされているのは、国際化を意識してのことであると考えられるが、この場合の国際化は外(海外)に対する国際化であり、地域で進行している国際化は課題として取り上げられるには至っていない。

 もちろん進歩して来ている面もある。例えば、近年多くの市町村に設置されている国際交流協会や国際化協会などは、地域ボランティアを組織しながら、外国の都市との間での姉妹都市提携をはじめとする交流事業や地域の外国人を対象とした日本語学習支援、住民同士の交流促進などの事業が精力的に進められるようになっている。また、言語的に多様な子どもたちのニーズに配慮して、学校では配布される文書などの母語版が作成されるようになた。市役所や郵便局、病院などの窓口でも英語、中国語、韓国語など幾つかの言語版が用意されるようになっている。

 このような取り組みをさらに量的にも質的にも拡充して行くことが当面の課題である。また、学校教育や社会教育の分野においては母語教育についての啓発活動やバイリンガルプログラム、母語教室の開発・実施が課題として設定されなければならない。

 ここで注意を要することが二点ある。一つは日本語の民族言語活力(ethnolinguisitc vitality)の強さとそれに伴う同化要請圧力についてである。現在の日本社会を考えた場合に、政治・経済・社会、文化、どの面を取っても、日本語の力は圧倒的に強く、英語も含めて他の言語とは比べものにならない。教育は勿論、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのマスコミを見ても、日本語の独壇場である。そういう中では、日本語・日本文化への同化要請の圧力が極めて強く作用することから、日本語以外の他の言語は政策的に強力に保護・育成しない限り、「誰もが自分の母語が使用できる」環境とはならない。政策的な後押しなしには日本語だけが使われるという現実は変えられない。

 もう一点は、母語・母文化の保持を重視する、つまり、「誰もが母語が使用できる」ことだけが独立して追求された場合には、それぞれの言語や文化を共有する人々が共同体を組織し、相互に分離しあうという問題が生じる危惧が指摘される点である。この問題については、現実問題としては、グローバル化が進む現在そのようなことはあり得ないとも言える。しかし、北米のインディアン居留地に見られる隔離の問題は依然として存在する。また、より本質的な問題としては、同一地域に住む人々がそれぞれ自分たちの母語や母文化の中で生活しそれで完結する場合、結果的に分離や隔離が必然的に生み出されるという点である。そして、それぞれの共同体が孤立し、結果として言語や文化を異にするもの同士が交流し相互に高め合い学び合うことが全く不可能となる。そのような社会は多様性が保持されているとは言えても、それは極めて静的なものであり、成長・発展が停止した社会の単なる寄せ集めでしかない。単に多様な言語や文化が相並んで別々に存在する静的なものとしてではなく、「多様な言語・文化背景が尊重される」とは、異なった言語や文化間に交流があり、交流を通して新たなものが不断に生成される動的な過程としてあることが重要である。

 以上から、母語保持あるいは言語間共生はそれだけで存立することは不可能であることが分かる。母語を異にするもの同士の相互交流を可能とする第二言語学習の広範な存在を得てはじめて、母語保障は言語権の保障としての意味を持つ。

(3) 誰もが第二言語が学習できる

したがって、第二は、第一の母語の保障を前提とし、その上に立って、自分たちの母語でない言語を相互に学習する機会が受けいれ側、参入側を問わず必要である。現状ではややもすれば、それは、参入側の日本語学習支援に切り縮められ、特に日本語母語話者における第二言語学習支援は触れられることが全くない。しかし、新しく参入してくる側だけでなく、受け入れ側の日本人においても日本語以外の言語を第二言語として学習することが重要である。

 新しく日本社会に参入して来た人々にとっては第二言語としての日本語学習が必要不可欠であり、緊急課題でもある。日本語がほとんど唯一の媒介言語となっている日本社会の現状を鑑みると、日本語の充分な力なしには社会参加の道が閉ざされかねないからである。この日本語学習支援については、行政によってさまざまの施策が進められ、合わせてボランティアによる支援活動も活発に展開されている。しかし、それでも多くの定住外国人は満足な制度的支援を受けることなく日本社会に投げ出されているのが実情である。

定住外国人を対象とした日本語学習支援は、緊急かつ重要な課題である。しかし、その支援をどのように進めるかについては、「効率的な日本語教授法の追求」という課題に限定しないで、言語権の保障という、より大局的な見地からの見なおしが必要であろうと考えられる。何故なら、次に見るように、受けいれ側である日本人が参入側の言語を学ぶことが遅々として進まない中で、参入側の日本語学習だけが進められた場合、先に述べた日本社会における日本語の民族言語活力の強さとも相俟って、同化要請の強い日本語学習となり、言語間共生の基盤は完全になくなってしまうことが予測されるからである。

3.3.言語権の保障に日本語教育はどう寄与できるか

日本語教育は、言うまでもなく、日本語を母語としない人々を対象としてなされる第二言語教育である。まず、地域の日本語教育という観点からその現状を見てみる。

(1) 同化要請として機能する日本語教育

 地域の中に増えてきている定住外国人の受け入れは、一言で言えば、同化要請が基調となっている。例えば、日本語や日本文化が分からない外国人は日本社会で不利益を受けても仕方がないという風潮がある。これは、基本的には「郷に入れば郷に従え」と、日本語・日本文化への同化を求めるものである。

 こうした中で、日本語支援に当たる日本語教師や日本語ボランティアは、外国人が不利益を被らないように、彼らの日本語学習を支援したり日本式の生活への適応のコツを教えることに努める。このような日本語教育では、「日本語母語話者の日本語」を規範としモデルとしてそれを教え込むことに主眼が置かれる。加えて特に近年は言語の背後にある日本文化にも充分馴染ませて日本人の規範で適切とされる言語行動がスムーズにとれるようになることも日本語教育の目標として目指されるようになった。次の声はそうした言わば良心的な日本語教師の典型的な声である。

    日本で生活する上で不利になるようなことは、「日本人はこのようにしている」とい    うことを教えてあげる必要はあると思う。その方法を選択するかどうかは本人が考えて行動すればいいのではないだろうか。

この声から分かるように、教師たちは日本文化への同化を押しつけることはよくないこととしつつも、自分の担当する「学習者」が知らないで不利益を被ることのないように、「日本人はこのようにしている」という事実をきちっと教えることが大事だと強く確信している。その理由は、「学習者」自らが自己責任で、どうするかを自己選択できるからというものである。

 このような考え方やそれに基づく日本語教育には問題がある。例えば、「自己選択」について、日本人はこうすると教えられた外国人が、その方法と異なる方法を現実問題として選択できるだろうか。「自己選択」を勧められても、現実的には「同化要請」として機能することが多いのではなかろうか。また、「日本人はこのようにする」と提示された方法は、日本人ならどこでも誰でも絶対とるものだと言いきれるだろうか。あるいは、視点を変えて、「日本人はこのようにしている」という場合の「日本人」とはどんな日本人を指すのだろうか。長く住んでいても日本人の範疇に入らない人々もいるのだろうか。例えば、少数であるとは言え、在日朝鮮人など、多様な言語・文化背景を持つ人々が日本人の中には実際にいるという事実は考慮の対象にされていないのではなかろうか。

 このような様々の疑問や問題があっても、多くの日本語教師は、自分が相対する外国人が教室の外に出たとき日本人に誤解を与えたりその結果不利益を被ったりしないように、「日本の常識」や日本人に好感を持たれる話し方を工夫して教え、そのマスターを期待する。このような善意にあふれた日本語教師や日本語ボランティアによる日本語教育を受けながら、多くの外国人は、この日本という社会では日本のやり方に合わせなければやっていけないことを認識し学習していくのではないだろうか。

(2) 同化要請として機能しない日本語教育の追求

 この延長線上に築かれる社会は、定住外国人がいくら数の上で増加しようとも、旧来の「日本語・日本文化」の維持が自己目的的に追求される社会であり、本質的には単一言語・単一文化志向から一歩も踏み出すことができない。そして、重要な点は、そうした単一言語・単一文化志向を支えるものとして日本語教育が機能していることである。増加する定住外国人の多様な言語・文化背景の尊重のためには、同化要請にならない受け入れ方法、同化要請として機能しない日本語教育のあり方が探られなければならない。

 そのためには、一つには日本語教育のあり方そのものの見直しが課題となる。言うまでもなく、日本語教育は日本語を母語としない人々を対象としてなされる第二言語教育である。それは、すべての人々の言語権の保障を目指しそれに寄与するものとしてなされなければならない。ということは、第一に、教授対象とする日本語は共生言語としての日本語であることの確認し、第二に、学び手の母語保持や学び手の母語を共生言語としていくこととも関連させた日本語教育でなければならない。

そして、二つには、一つ目の日本語教育の見なおしと連動するが、言語権の保障、すなわち、すべての人々の母語を保障し、すべての人々に第二言語学習を保障することが徹底されなければならない。現状では母語保障は受けいれ側である日本語母語話者だけが、第二言語学習は参入側である日本語非母語話者だけ(不十分な態勢ではあるが)がその視野に入っている。次のような疑問の声はそれを物語っている。

  *何故新たに参入して来る外国人だけが第二言語(日本語)を学ぶのだろうか。

  *何故、受け入れる日本人側は何語も学ばなくてよいのだろうか。

  *行政による支援は何故、日本語に限られ、彼らの母語保障は対象にならないのだろ    うか。

日本語教師の任務は一つ目が中心とならざるを得ないであろうが、二つ目の課題を視野に入れるのと入れないのとでは一つ目の課題の追求も変わってくると思われる。

4.日本語教育の新たな展開:「共生日本語」教育

 母語保持の強化は分離や隔離を促進するものとして、他方、第二言語学習特に日本語学習支援は多数派言語(集団)への同化の要請として、それぞれ機能する可能性が大きい。そうした分離・隔離促進や同化要請とならないためには、先に見たように、一つには、どの母語も等しく尊重されるようにすると同時に、日本語母語話者も含めて、周囲の人々の母語を第二言語として学ぶという基本が追求されなければならない。ここでは、言語内共生を促進し、異なった母語話者を媒介する手段としての「共生言語としての日本語」の教育の実態を明らかにしていく。この鍵概念が内容重視の第二言語(日本語)教育である。

4.1 内容重視の第二言語教育

 「内容重視の第二言語教育」とは、特に1980年代以降の第二言語教育の中で出てきた考え方で、学ぶ側に存在するニーズの多様性に注目しそれを第二言語教育の方法に反映させようというものである。1960年代頃までの第二言語教育は、言語自体には注目しても、学ぶ主体である学び手に注目することはあまりなかった。また、言語に注目すると言っても、文型や語彙などの言語の表層的な型に限られていた。そうした中で、言語学における構造言語学から機能言語学へ、心理学における行動心理学から認知心理学へというパラダイムの転換の影響を受けて、第二言語としての英語教育を中心に、教第二言語教育の方法においても変革が始まった。例えば、1970年代に入ると、コミュニケーション能力の獲得を重視するコミュニカティブ・アプローチが登場し、コミュニケーションにおいて重要となる言語の機能や意味を基準にした機能シラバスや概念シラバスなどが開発されるようになった。

 どのような学び手に対しても一律のコースを与えるのではなく、当該クラスで学ぶ学び手のニーズ調査が積極的な位置を与えられ、対象とする学び手のニーズに応えることを直接的目的とするコースデザイン論やカリキュラムデザイン論が一つの領域として確立された。このようなことを背景として、学び手への注目をさらにもう一歩進めたのが、内容重視の第二言語教育である。岡崎(1994)は「学習者中心の言語教育をさらに精緻化する枠組みを示す」ものとして内容重視の第二言語教育を特徴づけている。

 内容重視の第二言語教育とは、言語によって扱われる「内容」を優先し、その「内容」を先ず決めてから、その「内容」を実現するための言語的手当てとして「言語項目」を決める方法である。この優先し重視される「内容」は、言語の必要性(例えば文型や語彙の基本・派生や難易など)からではなく、学び手側のニーズによって規定される。

 このような内容重視の第二言語教育は日本語教育にも取り入れられ、留学生日本語教育や年少者日本語教育などで実践されている。留学生教育の例としては、各学問分野固有の言語的特徴を取りだしてそれを「内容」として焦点化する、あるいは教養教育の一環として位置付け大学生に要求される教養を「内容」として取り上げる、などがある。また、年少者対象としては、各教科を「内容」としてそれに日本語を組み合わせる方法が追求されている(斎藤1999、清田2001など)。

相互分離や多数派言語・文化集団からの隔離、逆に多数派言語・文化集団への同化要請として機能せず、「多様な言語・文化背景の尊重」を支持し、それにつながる日本語教育とするためには、内容重視の「内容」の質的転換が必要となる。先に述べたように、どの母語も尊重され、また分離や隔離という状況を招来しないためには、異なる母語を持つ人々の間での相互交流が不可欠である。この相互交流を媒介するのが共生言語である。この共生言語は多ければ多いほど、言語間の対等性が保たれ「言語間共生」の基盤となる。日本語も含めどの言語を母語とする人であっても他の人たちの母語を第二言語として学び、できるだけ多くの共生言語を創り出していくことが目指される。第二言語教育とは基本的にこの共生言語を創造する教育を意味し、第二言語としての日本語」教育も例外ではない。

4.2 「共生日本語教育」と「内容」

 したがって、「共生日本語」教育のコースデザインにおいては、これまで以上にニーズ調査が重要となる。また、取り上げられる「内容」はこれまでのように教科や専門から拾い合えることはできない。、「内容」は専門や教科の内容ではなく、別の「内容」が必要とされる。その「内容」とはどういうものだろうか。

 「共生日本語」は母語話者と非母語話者の間で交わされるやりとりを通して場所的に創造されていく日本語である。母語場面の日本語との根本的な違いはここにあり、母語話者の頭の中に内在化された日本語ではないのである。したがって、「言語形式」と「内容」と言うように予め分類することも難しい。接触場面におけるやりとりを通してそのプロセスの中で新たに生み出されるもの自体が「内容」であり同時に「言語形式」でもある。例えば、人は特に母語や文化背景の異なった人ととのやり取りを繰り返すと、今までは気づかなかった自分のものの見方や考え方に改めて気づいたり、自分とは違う相手のものの見方や考え方への気づきがあったり、また自分のものの見方や考え方が変化したりすることへの気づきや自己成長の実感を経験する。こうした気づきは、やり取りをする双方のそれぞれの側に不断に生み出される。つまり、双方の各々が元々持っていた自分の文化的枠組みに気づき、かつ相手の枠組みを知り、それぞれをつき合わせることによってどちらの側も第三の新たな枠組みを自分なりに創り出していく。したがって、元々の自分に気づいたり、相手を知ったり、新たなものを創造したりすることが「内容」であり、そうした内容を言語的に担うのが共生日本語である。つまり、共生日本語は、双方の文化に気づき、受けいれ、新たな文化の枠組みを自分に合った形で創造していくという「内容」の実現を担う言語であると言えよう。

 先に、イヌイットは雪を複雑な現象として認識しいくつもの名称で雪を区別しているていることに触れた。このような雪という自然の複雑な切り取り方を母語で行っているイヌイットに日本語を教える場面を想像してみよう。言語は一対一で対応することはないと言って、両言語を切り離して日本語を教えることは可能であり、日本語では雪は単純だとして終わりにすることもできる。他方、イヌイットが、日本人(教師)に対して、自分の母語ではこんなにたくさんの雪がある、つまり見分けることができるということを指摘したらどうだろうか。指摘された日本人(教師)は、これまでは雪をそんなに幾つもの雪に見分けることができなかったが、イヌイットの指摘を契機にして、雪は違った物差しを持ってくればもっといろいろに見える、つまり、世界の切り取り方にはいろいろある、ということに気づき、そもそもは「学び手」である筈のイヌイットに教えてもらうという状況が出現するであろう。同様に、イヌイットは日本人(教師)から、雨にはこんなたくさんの雨があることを学ぶことによっていろいろに雨を見ることができるようになるであろう。言い換えれば、世界の切り取り方が、「学ぶ」側と「教える」側の双方において、豊かになっていくことが考えられる。これが「共生日本語」のクラスで獲得が追求されるもう一つの「内容」であると言えよう。

 「共生日本語」を学ぶ場合、その日本語は、日本語が持っている内容をただ伝達するというようにはならない。伝達をしたのでは、上で紹介したように双方を豊かにすることはできない。また、日本語自体も豊かになっていかないし、相手の人の世界も豊かになっていかない。お互いがお互いの言語が持っている内容を出し合っていく。この出し合いは単なる伝達のし合いではない。お互いに対話をすることによって、自分の言語だけでは見られなかった世界の見方を発見しそれをお互いに共有していくことがポイントである。

 このように見て行くと、「共生日本語」教育では、従来の日本語の教室のように、日本語の先生が一人で教えるという形態にはならないことが予想される。そうではなくて、そこでは、日本語母語話者と非母語話者が共にお互いに学び合う。お互いに学ぶのは何のためかというと、お互いが持っている内容を出し合い、そこで、第三のものを作り上げていくためである。予め一方が持っているものを他方に移すためではない。そうすることによって、お互いが豊かになっていく。

5.共生言語の複数形成と日本語教育

 以上、思惟的とも言えるようなことを述べて来た。以下では特に共生言語の複数形成と関連してそれに日本語教師はどのように関わっていけるか、実例を見ながら現実的な展望を示して行きたい。

 お茶の水女子大学大学院日本語教育コースでは「共生日本語」教育に間していくつかの取り組みを続けてきているが、ここでは一番新しいところで、学部の新入生を対象として開講された基礎ゼミという授業での取り組みに焦点を絞って紹介する。

 基礎ゼミは、高校まで学んできた知識積み上げ式の学び方ではなく、発見型・探索型・問題解決型という学部生にとっては新しい学び方を獲得させることを目指して、各講座が全学の学部生を対象に半期2単位で開講している授業科目である。それを今回筆者が担当することになった。留学生対象の日本語科目と合わせることで、日本人学生、留学生共に各20名、40余名規模のクラスができた。いわゆる多文化クラスである。「共生日本語の創造」を目指したグループ討論に一コマの半分45分を当て、残りの半分を「共生言語の複数形成」を目指した留学生の母語学習に当てることにした。最初のオリエンテーションにおいて、留学生の中から自分の母語を仲間に教えたい「教師役」を募り、日本人学生、留学生も含め残りの学生から「学び手役」を募り、結果、中国語、韓国語各2グループ、広東語、ボーランド語、ロシア語各1グループの7グループが編成された。各グループ「教師役」は1から2名、「学び手役」は少ないグループで4名、多いグループで7名というものであった。討論のグループは二週毎に動かし、言葉のグループは期間中教師役、学び手役共に固定しました。実際の活動はどちらも教師側からの指示はせず各グループに任せた。

 日本語以外の言語を共生言語とすることを目指して試みられた言葉の時間を受講生がどう受けとめたか、コース終了時に学生が書いた感想の一部を次に紹介する。

学び手役
*自分の仲間から仲間の母語を学ぶことがとても新鮮だった
*分からないことがあったらその場ですぐ質問できてよかった
*出来ない発音は一人一人何度でも練習できたので身についた
*中国の一般の生活により近い形で接することができ、「エーッ」「ヘェー」などと声を出して驚き感心することが多かった
*語学の授業という形式をとらなくても、言葉の勉強ができることが分かった
*友達同士コミュニケーションをしながら教えてもらうので気楽な感じで覚えることができた
*同世代の先生と友達感覚で接することができたでその分、相手の国の文化やことば、価値観などをもっと深く理解したいという気持ちが強くなり、積極的に参加できた


教師役
*言葉だけでなく、中国のことや中国人の考え方・感じ方を教えることを目指した
*中国語を教えながら、自分も自分の母語に対して発見がたくさんあった
*ハングル文字が読めるようになるぐらいかなと思っていたら、それは一ヶ月でできた
*自分に教えられるのか、どんな教材を使えば良いのか心配だったが、何を勉強したいか言ってくれたり、一生懸命学んでくれたので楽しく出来た
*日本語で説明するときなど、自分の言いたいことがうまく伝えられなくて困ったが、日本人学生が説明を補足してくれたおかげで、自分もこの場を利用して、日本語でもっとスムーズに話せるようになった


双方
*近いようで遠かった国が身近に感じられるようになった
*このままで使わなくなるのはもったいないから是非続けたい、
*ロシアに行きたい、
*この授業を通じて中国語ができるようになったというのは絶対うそだけど、色々な言葉を習いたいと思うようになった

この感想にみられるように、「仲間の母語を学ぼう・仲間に自分の母語を教えよう」という活動は、受講生から一定程度評価されたと思われる。日本人学生にとって身近な留学生から彼らの母語を学ぶことは、先に述べた共生言語の複数形成という観点から極めて重要である。受けいれ側としての日本人は、参入側の人々と共に共生日本語を創造する学びと共に、彼らの母語を共生言語として創造していく学びにも参加していく必要がある。日本人は、第二言語を学ぶ技術を身につける必要がある。学校英語での失敗経験から外国語学習には臆病な人が多いように思われる。また、日本語を外国人に教える技術が地域における国際化のためには重要だという考え方があるが、それに勝るとも劣らないぐらい、彼らから彼らの母語を学ぶ技術も重要である。今回の試みでは、クラスが進行するにつれて、教師役と学び手役の息が合っていくことが観察された。スムーズな教え合いのためには、教師役の工夫も大切であるが、それにも増して、学び手役の役割が大きいことが分かる。例えば、教師役が説明に窮すると学び手役がすかさず「分かった、分かった」と言って教師役を元気付けたり、教師役が不安そうな顔をすると、声を出して繰り返して学ぶムードを盛り上げたり、また、自分の知りたいことや学びたいことを積極的に主張したりして、教師役と共に学習を創り出すことに貢献していた。これらはややもすると自信喪失してへこたれそうになる教師役を盛り立てる技術であり、言語教育の専門家ではない仲間から言葉を学ぶコツであると言えよう。言い換えれば、第二言語を学ぶのに何も大学や専門学校などに行く方法だけでなく、もっと身近なところに言葉を学ぶ方法があるということの発見である。しかも、この方法は、単に言語ができるようになるのではなく、学ぶ過程で多様な言語や文化背景を持つ仲間とのやりとりを通してお互いの間にある異なりや共通点をよりよく知る・実感することもできる方法である。また、教える側にとっては、自分の母語を教えることを通して自分の母語を見なおしたり改めて愛着心を感じたりすることにも力が発揮される。日本語が流暢になるにともない母語を疎んじるようになる傾向が年少者の間であるが、母語が大切だと言うことを百万弁強調するより、母語を教えさせる方が母語保持に力を持つと言えるであろう。

 この方法は大学の学部生対象に開講されている授業の中で行われたものであるが、大学の授業の場に限る必要はない。公民館講座などでも気軽な外国語教室版として開設することが望まれる。日本語母語話者が第二言語を学ぶことが、複数の言語での言語内共生を促進し、言語間共生の芽を地域において確実に育てていくことになるからである。今回の基礎ゼミのケースのように、言葉の時間だけにしないで討論の時間と組み合わせることで、相互の学び合いは一層強化されると思われる。討論においては共生日本語の創造が目指され、その意味で、日本語教育は共生日本語の創造と日本語以外の言語内共生の促進を同時に追求することができ、文字通り、多言語多文化・共生社会の創造に貢献する日本語教育として役割を果たすことになると考えられる。

6.おわりに

国内における多言語化・多文化化の動きを受けて日本語教育は新たな段階に入ってきている。日本語の教室で対面する「学習者」はかつてのようにもはや単なる言語学習者ではあり得ない。その多くは私達と共にこの社会を構成して行くパートナーである。彼らと共に何を根本におき、どのような社会を創っていくかについて考える必要がある。ここでは、それを多様性の尊重=多様な言語・文化背景が尊重される社会と考えた。どの人の母語も等しく尊重され、幾つもの言語が共生する社会(言語間共生)、そして、異なった言語の母語話者同士がお互いの母語を学び合う(言語内共生)ことを通して活発な交流が繰り広げられる社会をまず想定した。次に、このような社会を築くために、第二言語としての日本語教育に携わる私たちの任務を、日本語教育を同化要請から解放し、「共生言語としての日本語」教育を内容重視で行うこと、そして、共生言語の複数形成に積極的に関与していくことであるとし、後者についてはその具体的なケースを紹介した。

 本稿は、多様な言語・文化背景が尊重される社会創りに貢献できる日本語教育を目指し、そのアウトラインを描くために一つの素材を提供するものである。第二言語としての日本語教育に関わる日本語ボランティアや日本語教師の方々の間で、本論で紹介されたことが議論の遡上に上ることを期待したい。

 

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本稿は、01年度日本語教育学会秋季大会シンポジウム発表原稿に大幅な加筆修正を加えたものである。