お茶の水女子大学
日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成
講演会報告一覧
比較日本学教育研究センター・大学院教育改革支援プログラム主催

平成20年度 第1回公開講演会

講演者 アニック・ホリウチ 先生 (フランス・パリ第7大学 東アジア言語文化学部日本語学科教授)
テーマ 近世日本の知のネットワーク ~「魯西亜(ロシア)」関連の言説を通して~
日 時 2008年5月29日(木)13:00~15:00
場 所 文教育1号館1階大会議室
司 会 ロール・シュワルツ=アレナレス (本学准教授)
頼住光子 (本学准教授)


アニック・ホリウチ先生のご紹介

本日は、パリ第7大学教授であるアニック・ホリウチ氏を本校にお招きできたことを、日本について研究するフランス人として、私自身、大変光栄に思います。この数ヶ月間、パリ第7大学と本校との大学間協定に向けて、 ホリウチ氏と共に準備を進めさせていただき、この協定は無事に締結されることとなりました。またこの協定による交流のスタートとして、セーヌ河畔の再開発地区にあるパリ第7大学の新しいキャンパスで、今年の1月14日と15日の2日間にわたり開催され、 大きな成功をおさめた共同ゼミも、ホリウチ氏の貴重なご協力の下に行われたものです。本日は、お茶の水女子大学比較日本学研究センターの活動の一環として、この記念講演会を開催することで、今回は、本校側としての、この大学間協定による初めての交流となります。

ご講演をいただく前に、私の方からホリウチ氏の経歴と研究について簡単にご紹介させていただきます。 アニック・ホリウチ氏は、パリ高等師範学校で数学を修められ、東京大学大学院、科学史・科学哲学研究室に大学院研究生として2年間在籍され、パリ第7大学にて数学の修士号、日本数学史の博士号を取得されました。

ホリウチ氏は現在、パリ大7大学東洋言語文化研究科の教授でいらっしゃいます。この研究科はフランスにおける日本研究の分野で最も重要でダイナミックな教育拠点のひとつです。ホリウチ氏はまた、同大学の日本研究グループGREJAの責任者でもあります。ここでは歴史、文学、宗教、思想、社会科学、美術史といった日本学の中の多くの分野が研究対象になっており、また日本研究に従事する博士課程の学生と研究者との出会いや討論の場ともなっております。

ホリウチ氏は数年前から、前近代、及び近代日本の思想史と科学史についての研究の中で、18世紀後半から19世紀初頭にかけての日本人の知的生活に起こった変化について注目なさっており、とりわけ西洋の知識を取り入れるプロセス、そしてそれが、日本に根付く中国からの遺産の相対化と、近代日本のアイデンティティーの確立に与えた影響に関心を向けていらっしゃいます。

また著書も多く、例えば1994年に出版された400ページの 大著、『江戸時代の日本の数学(1600-1868):関孝和(?-1708)と建部賢弘(1664-1739)の業績について』(Les mathématiques japonaises à l’époque d’Edo (1600-1868) — une étude des travaux de Seki Takakazu (?-1708) et de Takebe Katahiro (1664-1739))や2006年の『日本と中国の教育:歴史的要素』(Education au Japon et en Chine. Éléments d’histoire)など、また日本語で執筆された論文に、「『海上珍奇集』における人間と動物をめぐる言説」や「日本思想史のあり方を考えるー丸山眞男論を通じて」などがあります。

本日は、「近世日本の知のネットワーク「魯西亜(ロシア)」関連の言説を通して」というタイトルでお話いただきます。

(以上、文責・本学准教授 ロール・シュワルツ=アレナレス)

講演および質疑応答の模様

去る5月29日、大学院GPプログラム「日本文化研究の国際的情報伝達スキルの育成」プログラムの一環として、また、本学比較日本学研究センターの活動の一環として、アニック・ホリウチ先生(パリ第7大学教授)を招聘し、「近世日本の知のネットワーク「魯西亜(ロシア)」関連の言説を通して」というテーマで、講演会が開催された。

ホリウチ先生の講演内容について、簡単に紹介したい。

ホリウチ先生は、天明期から文化期へという大きな社会的変化の中で、蘭学の地位の上昇と従来の学問体系の相対的な地位の低下とが起こったと指摘する。このような変化をもたらした大きな要因として、その時期の、ベニョフスキーやラクスマンなど「ロシア使節の到来」があると考えられる。この時期ロシア関連の情報をもっていたのは蘭学者だけであり、為政者にとって蘭学者のもたらすロシア情報なしでは北方政策を成り立たせることは不可能だったのである。

ロシアに関する情報提供を行った蘭学者は多くおり、おもにオランダ語の原書からの翻訳による知識であるが、原書は高価であり翻訳も幕府の注文によって行われることが一般的であったので、民衆にその情報が流布することはなかった。

また、幕府の方針が変わると学者の立場も大きく変わった。たとえば、田沼意次の時代には幕府は積極的に蝦夷地開拓に乗り出し、幕府普請役青島俊蔵や佐藤玄九郎に加えて数学者最上徳内が調査隊として現地に派遣されるが、保守的な松平定信の時代になると、青島や最上はスパイ容疑をかけられて牢獄に入れられてしまう。つまり、この時代、「学問の自由」はなく、常に幕府の動向を気にしながら、学者たちは自らの研究を積み上げていかざるを得なかったのである。

さて、実際の蘭学者らのロシア関係の業績に目を転じてみると、おもに三つのカテゴリーに分けることができる。

① 地理書類
② 報告書類
③ 経世論類

まず、①の地理書類であるが、これらは幕府の求めに応じて翻訳されたもので、ほとんどは写本として残っているだけである。その中で例外的に刊行されたのが朽木昌綱の『泰西輿地図説』(1789年)であり、複数の蘭書を利用した地理書で広く読者を獲得した。また、注目されるのは、前野良沢、桂川甫周など『解体新書』翻訳グループが、この地理書翻訳にも関わっており、幕府の外交政策に直接的に影響を与える立場にあったことである。

②の報告書類は、ロシア関係の文書の中でも最も多い。中で注目されるのが、日本人による実地探検の報告書と漂流民による報告書である。前者としては、サハリンに2度も渡った最上徳内が、後者としてはエカチェリーナ2世にも拝謁し帰国許可を得た大黒屋光太夫によるものが重要である。

③の経世論としては、たとえば本田利明や林子平などによる対ロ政策に対する提言がある。彼らは、自由な発想でこれまでの政策を大きく変更することを提言した。天明・寛政期の特徴として、確固たる地位のない学者が幕府に対して大胆な提言したということがある。また、同様の例として仙台藩医の工藤平助があげられる。彼は、田沼意次の依頼により『赤蝦夷風説考』を1783年に幕府に提出するが、これはロシアに関する貴重な情報が盛り込まれた未曾有の書物であり、この中で、工藤は、日本の取るべき道として通商と蝦夷地開発を提案している。この時期、一介の藩医が幕府の最高実力者の政策に影響を及ぼすことができたのである。

以上述べたように、18世紀末から19世紀初頭にかけて、知識人の地位は、蘭学者を中心として上昇し、政治的影響力を持つようになってくる。蘭学者やその周辺の者たちは、「芝蘭堂新元会図(オランダ正月)」の図像からもわかるように、ネットワークを形成し、互いに刺激しあいながら、学的社会的影響力をさらに高めていったのである。

上述のようなホリウチ先生の発表は、蘭学に対するイメージを一変させるものであった。蘭学というと、「解体新書」翻訳などのように、西洋の進んだ文明の紹介に終始したように思われがちだが、そこで得られた知識や自由な発想が江戸期の日本社会に影響を与えていたことを、ホリウチ先生は豊富な資料によって明らかにされた。

講演のあと、本学教員で近世日本思想史専攻の高島元洋教授のコメント、特定質問者として指名されていた本学大学院生(日本史専攻2名、日本思想史専攻2名)の質問に対してホリウチ先生から、講演内容をさらに補足した応答がなされ、理解のために有益であった。

以上、ホリウチ先生による講演会の概略を紹介した。講演において示された江戸期知識人のありようは、私ども日本関連の研究を行う者にとってたいへんに刺激的なものであり、多くを教えられた。今回の講演会を皮切りに、今後、ホリウチ先生をはじめとするパリ第7大学のスタッフや学生との交流がさらに盛んになることを心より祈念する。

(以上、文責・本学准教授 頼住 光子)
講演のあと、内田伸子副学長の執務室を訪問していだたきました。
さらに15:30から、本館コンファレンスルームで茶話会が行われました。