Ochanomizu University banner

「魅力ある大学院教育イニシアティ ヴ」によるシンポジウム

 哲学、倫理、宗教思想 ― 日本とフランス:交差する視点 ―

フランスからの発表概要

イヴ・シュワルツ Yves Schwartz (エクス・マル セ大学教授)
「人間的普遍性、歴史的特殊性:諸科学、諸技術 ―日本とヨーロッパ―」
 比較研究のコロックでは当然のこととして、まず、諸国民と人間の諸グループの歴史的、文化的、宗教的な特殊性と特異性の尊重、そして、人類について語る こ とを正当化し、また人々のあいだのあらゆる種類(技術的、経済的、文化的、科学的など)の交易、借用、そして相互理解を可能にする普遍的諸次元、この二つ をいかにして同時に認めるかを知るという課題が与えられる。
 この観点からすると、一方で科学の歩みの構築、摂取そして支配、他方で、その不平等と諸変化が日本と西洋の関係史を特徴づけてきた技術と産業の諸活動 が、 歴史的なものと特異的なものの力との関係において、普遍性についてのこの問いを考えるための二つの入り口を提示している。
 この発表では、とくに技術の諸移転を通して例示されるような、今日エルゴロジーと呼ばれる歩みの枠組みの中で練り上げられた活動の概念が、普遍的なもの の 諸要求と、諸国民とその慣習の常に特異化されている構成の諸要求を、同時に尊重しつつ弁証法的関係にもたらしうるものとして示唆されるだろう。


ローラン・ジャフロ Lanrent Jaffro (ブ レーズ・パスカル大学教授)
「17、18世紀における自然の法の観念と、道徳と宗教の分節」
 17、18世紀の古典的ヨーロッパの哲学者たちは、倫理と宗教の関係の問いを深く反省した。この目的のため、彼らは「自然の法」という道具を用いた。確 か に彼らはそれを多様な仕方で解釈するが、それは啓示と道徳的生の関係を正確化することにつねに役立った。この自然の法という観念が、同時にまた東洋(一般 的にあまり細かく区別されず、遠くから見られたものだが)を西洋との関係において位置づけることに役立ったということは、たいへん興味深いことである。こ の発表の目的は、いくつかの例から、キリスト教的な(そしていくつかの観点から見れば、それが啓蒙主義の反キリスト教の形態を取るときにさえキリスト教的 でありつづける)哲学の内部で練り上げられた自然の法の観念が、いかにしてまた西洋の伝統とその外部の関係を考えるためにも用いられたかを示すことにあ る。キリスト教の内側で宗教思想と倫理を分節するだけでなく、キリスト教哲学と異教の知恵とを分節する目的のために自然の法の観念が用いられることを可能 にした、この観念のいくつかの両義性に、とくに注意をうながすだろう。


エマニュエル・カタン Emmanuel Cattin (ブ レーズ・パスカル大学教授)
「マイスター・エックハルト:平静と離脱」
 エックハルトの、あるいはエックハルトのものとされている小論『離脱について』の注釈を、ライン川のほとりに生きたこのマイスターのドイツ語著作を導き と して提案したい。特に、「離脱」Abgeschiedenheit(あるいは、中高ドイツ語ではabgescheidenheitと綴られた)と「放任」 (あるいはgelâzenheit)の概念について取り組むことが重要となる。エックハルトはこれらの概念によって、知性や意志のあらゆる働きを超えた、 自由の最も高い意味を考える。「放任」[「放下」]のこのような概念、ネオ・プラトン主義的な魂の上昇の概念は、ハイデガーが再発見することになるものだ が、同時にまた、このマイスターの思想と東洋の伝統のいくつかの側面との関連付けの試みをも正当化しうるものだろう。


アラン・プチ Alain Petit (ブレーズ・ パスカル大学助教授)
「プロティノスの倫理思想における超脱」
 この発表では、プロティノスの『エンネアデス』の基礎的な倫理的諸節のいくつか、とくに第一巻と第九巻に登場する、超脱、あるいは「あきらめ」の観念を 研 究したい。東洋と西洋の比較研究という見通しの中では、中立、没我性そして統一性の観念を強調することが関心に値するだろう。


エリザベス・シュワルツ Elisabeth SCHWARTZ
(ブレーズ・パスカル大学哲学科教授、philosophies et rationalits センター長)
作成中




<top>


Copyright©イニシ アティブ人社系事務局2005-2007 All Rights Reserved. 転載不可.
Last Modified 2006/01/13 責任 者:高島元洋 担当者:久米彩子