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「魅力ある大学院教育イニシアティ ヴ」によるシンポジウム

 18〜19世紀、江戸から東京へ:都市文化の構築と表象

お茶の水女子大学からの発表概要


内田 忠賢  (お茶の水女子大学人間文化研究科助教 授)
「江戸の妖怪と都市空間」
 極東の大都会、江戸では、18〜19世紀前半に妖怪文化が花開いた。絵画、文学、演劇など大衆文化の分野では、多種多様な妖怪たちが表現された。その一 方、都市民は、身近に具体的な妖怪たちに遭遇し、恐れると同時に親しんだ。その様子は、当時の人々が書き残した随筆や日記に記録される。民間説話の分野で 言えば、「世間話」「噂話」として、都市民の間で伝承された。
 今回の報告では、いくつかの文献をもとに、江戸という都市空間に対する人々の空間認識の問題として、妖怪たちを扱う。この問題は、私が専門とする地理学 だけでなく、民俗学、歴史学、社会学、文化人類学、都市計画学の分野に越境し、当時の庶民の感性を明らかにする。特に、都市開発の中で、都市民の自然環 境、動物、森、河川などに対する感性が、現実社会での妖怪を出現させた。その背景には、都市社 会、権力や階級、都市構造などの問題がある。東洋では古来、妖怪は悪魔であると同時に、神にも変換しうる。したがって、妖怪は恐れの対象である反面、親し さの対象となる。


神田 由築
 (お茶の水女子大学人間文化研究科助教授)
「江戸の都市と芸能文化」
 日本近世において芸能興行の中心地となったのは、江戸・京都・大坂の三大都市(三都)である。三都では、歌舞伎芝居や人形浄瑠璃、見世物などの小屋が建 ち並び、また芝居に関係する茶屋や、役者・裏方などの居宅が集中する町域(いわゆる芝居町)が形成された。江戸では、堺町(さかいちょう)・葺屋町(ふき やちょう)や木挽町(こびきちょう)、のちには猿若町(さるわかまち)が代表的な芝居町であった。
 その他に、寺社境内での芸能興行もさかんに行われた。これは宮地芝居と呼ばれ、芝居町の芝居よりも格が下がる。芝居町の大芝居に出演する歌舞伎役者と宮 地芝居に出演する役者とは、それぞれ別の集団を形成していて、大芝居の役者は原則として宮地芝居に出演できないなど、かなり厳格な区分けがあった。宮地芝 居での興行を取り仕切っていたのは香具師(やし)と呼ばれる、元来は歯磨粉などを売っていた商人であった。彼らは商売の人寄せのために芸能も行っていた が、やがて寺社境内での興行の権利を獲得するようになる。
 また、これらとは別に、都市政策によって作られた火除地(ひよけち)や、隅田川に架かる橋詰の広小路でも芸能が興行された。火除地や空き地で興行してい たのは、乞胸(ごうむね)と呼ばれる、江戸のみで確認できる特殊な芸能者集団である。さらには町の一角に設けられた寄席も、庶民の娯楽の場であった。
 一方、地方の城下町や、多くの人々が参集する門前町や港町などでも門前町や港町などでも、さかんに芸能興行が行われた。三都では恒常的に興行が行われた のに対し、これらの町では祭礼市のときにのみ興行が行われるなど、時期が限定されていた。しかし、これらの町や市(いち)での興行は、地方の人々が芸能文 化に身近かに接することのできる貴重な機会でもあった。三都を中心とする芸能文化が地域社会に浸透する過程で、これらの町や市が果たした役割は、はなはだ 大きかった。
 講義では都市江戸の事例を中心に、このような多様な芸能興行の場と、それに対応するさまざまな芸能者集団を紹介するとともに、江戸の文化が地方へ浸透す る様子も見ていきたい。


菅 聡子 (お茶の水女子大学文教育学部助教授)
「明治の東京 ―樋口一葉の小説を視座として― 」
 江戸から明治へという時代の変化のなかで、もっとも劇的に変貌をとげたのは「東京」という都市である。とくに明治20年代(1887〜1896)、東京 には、明治日本が国民国家として自己形成していく側面と、江戸時代以来の価値観が残存する側面とが混在し、種々の価値観や文化の交錯が見られる。本発表で は、近代日本文学を代表する作家の一人である樋口一葉(1872-1896)の小説テクストを視座として、以下の二点について論じたい。
 一つは、「東京」に混在する新旧二つの価値観の交錯、ならびに地名の持つイメージ喚起力が、小説テクストにおいてどのように機能するか、という点であ る。ここでは、樋口一葉の『たけくらべ』(1895〜96)『わかれ道』(1896)を中心に述べる。もう一つは、日清戦争を具体的契機とする人々の「国 民化」がどのような都市イベントを通じてなされたか、という点である。ここでは樋口一葉の『ゆく雲』(1895)ならびに日記を題材とする。
 さらに、「東京」の変貌が象徴する「近代」の到来が、日本の女性にどのような抑圧を与えたかについてもふれたいと思う。


藤川 玲満 (お茶の水女子大学大学院人間文化研究科 博士後期課程)
「『江戸名所図会』について」
 本発表では、江戸時代の江戸の名所案内として『江戸名所図会(えどめいしょずえ)をとりあげる。『江戸名所図会』7巻20冊は、江戸神田雉子(きじ)町 の名主、斎藤(さいとう)幸雄(ゆきお)・幸孝(ゆきたか)・幸成(ゆきなり)の三代が、寛政年間(1789-1801)から文政年間(1818- 1830)にいたる三十年あまりをかけて完成させ、天保7年(1836)に出版された。名所図会は、安永9年(1780)に出版された秋里(あきさと)籬 島(りとう)の『都名所図会(みやこめいしょずえ)』6巻6冊(続編の『拾遺(しゅうい)都名所図会』4巻5冊は天明7年(1787)刊)にはじまる地誌 の形態で、先行文献や実地調査に基づいた解説に俯瞰図を中心とする挿画が加えられた特徴をもつ。寛政年間には『大和名所図会(やまとめいしょずえ)』、 『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』、『東海道名所図会(とうかいどうめいしょずえ)』と、畿内をはじめとする籬島による名所図会が次々に刊行されて いた。『江戸名所図会』は、斎藤幸雄の自序にも明らかなように、籬島による名所図会を強く意識して制作されたものであり、同様の形式の書物である。本発表 では、江戸時代、将軍の在所としての江戸の『江戸名所図会』について、天皇の在所であった京都の『都名所図会』『拾遺都名所図会』と対照する視点から考察 する。
 まず、名所旧跡の採録範囲と名所図会全体の構成についてとりあげる。『都名所図会』には洛中だけでなく山城国一円が収められているが、『江戸名所図会』 のほうも、府内のみならず武蔵国一円に加えて一部は下総国まで広く郊外におよんでいる。また『都名所図会』における、郡別ではなく「平安城(へいあんじょ う)」と「左青竜(させいりょう)」「右白虎(うびゃくこ)」「前朱雀(せんしゅじゃく)」「後玄武(ごげんむ)」という四神の名を配した巻の編成に対し て、『江戸名所図会』では北斗七星の名を配した7巻の部立である。このような点から作者の構想を考える。名所図会の内容に関しては、象徴的な名所である江 戸城と隅田川をとりあげ、それぞれ『都名所図会』における御所、鴨川の記述と対照して記述方法や内容の相違点を探る。
以上のような観点から、京都の名所図会作家籬島のものとは違う、江戸人の斎藤氏による『江戸名所図会』の特質を考えることとする。


槻 幸枝 (お茶の水女子大学大学院人間文化研究科 博士後期課程)
「明治期東京の名所と観光案内書」
 観光名所は、ある時期のある場所における社会的・文化的な文脈の中に位置付けられる、相対的な存在である。流行、政策、経済など様々な背景のもと、以前 は観光客で賑わっていた場所が衰退してしまうこともあれば、逆にそれほど注目されていなかった場所が再評価されることもある。さらには、全く新しい観光名 所が創り出されることも珍しくない。
 こういった観点に立つなら、どのような場所がどのような理由で観光名所となり、どのようにして観光名所でありつづけているのか、または何故衰退してし まったのかを問うことは、観光名所そのものの成り立ちだけでなく、その観光名所を擁する地域の、ある期間における社会・文化の一側面を明らかにすることに つながるだろう。
 観光名所の成立や維持には、情報が大きな役割を担っている。特に観光案内書は、古くから観光名所と観光客の間に介在し、観光名所のイメージの創出や強化 に関わってきた。よって、観光名所のあり方を検討するためには、観光案内書にも注目する必要があると思われる。
 本発表では明治期の東京を対象として、観光情報を提供するメディアの一つとしての観光案内書の位置付け、および観光案内書において提示されている観光名 所の特徴(種別や分布)や東京のイメージなどについてお話ししたい。
 江戸には、寺社や盛り場、また花見のように自然に親しむ行楽地など、多くの観光名所が存在し、それらは名所図会などの案内書や浮世絵に描かれ広く紹介さ れていた。明治期の東京においても、これらの多くは観光名所であり続け、さらに洋風建築物に代表されるような新しい名所も数多く生み出された。そして、こ れらの名所を紹介する案内書も続々と出版されていた。
 案内書から見えてくる明治の東京は、どのような都市であろうか?


川原塚 瑞穂 (お茶の水女子大学大学院人間文化研究 科博士後期課程)
「深川の情景 ―泉鏡花の小説を手がかりに― 」
 泉鏡花(1873-1939)は、幽玄怪奇の幻想的世界や、花柳界を舞台とした耽美的・浪漫的な作風で知られる作家である。出身は金沢だが、江戸下谷生 まれの母を持ち、「江戸っ子」の尾崎紅葉を師と仰いだ鏡花は、好んで江戸の面影を残す東京を舞台とする小説を書いた。中でも深川・木場・洲崎などを中心に した「深川もの」も多数発表している。
 明治33(1900)年11月に発表された「葛飾砂子」は、題名の由来が、享保17(1732)年刊の江戸の地誌「江戸砂子」であるといわれる(深川は もと下総国葛飾郡に属した)。その名が示すように、この小説には富岡八幡の門前町、不動尊の縁日、佃の船唄、洲崎に通う早船、津波の記念碑など、深川の風 物がかずかず織り込まれている。
 本発表では、洒落本をはじめ、様々な近世文芸を摂取しつつ深川を描く「葛飾砂子」を中心に「深川もの」を読むことで、明治東京に残された「江戸」として の記号を担う「深川」の様相を見ていきたいと思う。


森 暁子 (お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博 士後期課程)
「近世軍記『鎌倉管領九代記』の相州玉縄」
 軍記物語において、地名は重要な役割を演じている。あるいは合戦の舞台として、あるいは特定の人物の出身地や領国、または終焉の地などとして作中に現 れ、そしてそのイメージは人々の間に浸透し、後の時代の作品にも広く長く継承されていくのである。
 『鎌倉管領九代記(かまくらかんれいくだいき)』は江戸時代の初期に成立し、幕末まで出版が続けられた軍記の一つである。この作品には、出版の早い段階 で江戸の版元の手によって付け加えられたと思しき跋文が存在するが、そこにはこの書が相州(そうしゅう)(相模国(さがみのくに))玉縄(たまなわ)に由 来するものであるという記述がある。この玉縄(たまなわ)という、比較的江戸に近い所に位置しながら現在ではなじみの薄い地名が、当時の読者にはどのよう なイメージを喚起させるものであったかを、『鎌倉管領九代記(かまくらかんれいくだいき)』本文及び周辺の軍記における表現から考察し、この跋文の虚構性 や作品に与える効果についても論じる。



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Last Modified 2006/01/13 責任 者:高島元洋 担当者:久米彩子