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お茶の水女子大学大学院 人間文化創成科学研究科 比較社会文化学専攻 表象芸術論領域
HOME大学院 人間文化創成科学研究科博士後期課程 比較社会文化学専攻表象芸術論領域

表象芸術論領域研究発表会を開催しました。

 去る2008年10月8日、表象芸術論領域では研究発表会を開催しました。
 当日のプログラムおよび発表要旨は下記の通りです。

開催日: 2008年10月8日(水)18:15〜20:15
会場: 文教育学部2号館110室
内容:
発表1:18:15〜18:35 竹田恵子氏
「「芸術/アート」という言葉を用いた言説にみる古橋悌二の「芸術」観」
発表2:18:35〜18:55 鄭 恵珍氏
「朝鮮王朝における剣器舞とその記録―王室記録文献儀軌を中心に―」
発表3:18:55〜19:15 山下正美氏
「サハの口琴ホムス―周辺諸民族との比較から―」
発表4:19:15〜19:35 森尻有貴氏
「ピアノ演奏学習者におけるメタ認知と学習効果の研究
 ―自己の演奏の客観的聴取を通して―」
発表5:19:35〜19:55 中津川祥子氏
「大正期の雑誌『オペラ』及び『オペラ評論』の出版状況について」
発表6:19:55〜20:15 原口 碧氏
「15世紀フランスの祝祭における異文化表象」

「芸術/アート」という言葉を用いた言説にみる古橋悌二の「芸術」観 竹田恵子

 古橋悌二(Furuhashi,Teiji 1960-1995)は、パフォーマンス集団ダムタイプ(dumb type)の一員であり、とくに評価の高い劇場上演作品≪S/N≫(1994)の制作において中心的な役割を果たした。古橋は1992年10月に、自らがHIV(human immunodeficiency virus ヒト免疫不全ウイルス)に感染していることを告白した手紙(以下<手紙>と記述)を友人らに送った。
 古橋はこの<手紙>において「新しい自己」を強調していることから、彼にとってひとつの転換点になったと考えられる。また、<手紙>の後に創作されたダムタイプ作品≪S/N≫には、言語が多用されているという以前の作品とは異なる特徴が見られた。さらに、古橋の<手紙>をきっかけとして90年代京都でエイズやセクシュアリティに関するさまざまな活動が広がったことから、社会的にも重要な位置づけにあると考えられた。
 本発表ではこの<手紙>から彼が死亡するまで(1992年10月11日〜1995年10月29日)の言説を対象として「芸術」または「アート」という言葉を使用している部分を抽出することにより、古橋悌二が考えていた「芸術」観を考察することを目的とする。筆者はさらにダムタイプなどにおいて彼と共に活動を行っていたブブ・ド・ラ・マドレーヌのインタビューに基づき、古橋の「芸術」観についての分析を補足した。
 結果、古橋は、人間の精神に影響を与え、社会を変えていくような「芸術」を志向していることが明らかとなった。<手紙>においては、「芸術」は人間の精神に一方的に影響を与えるものだけであったが、後に彼は観客と双方向的に影響を与え合うコミュニケーションを望んでいることが述べられた。
 また、古橋は従来の「アート界」のみにとどまらない活動を志向していたこと明らかとなった。 古橋がHIV感染を告白した<手紙>をきっかけとして1990年代京都において巻き起こったさまざまな社会活動には、多くの芸術関係者が携わっていた。このことは、古橋が志向した「芸術」観が要因となっていたと考えられる。これらの、社会に変化を与えるような、社会に開かれた「芸術」への志向の萌芽は<手紙>に見られるといってよいであろう。そして具体的にその「芸術」は、言語だけではなく全身を使用し、それゆえ「複雑な心の内奥」に触れられるような「新しいコミュニケーション」なるものであった。しかし、この時期のダムタイプ作品≪S/N≫に言語が多用されているという事実は興味深い。
 筆者は今後の課題として、古橋が志向していた「芸術」がどのように実現されたか、≪S/N≫の作品分析を行うと共に、1990年代京都で広がった活動がどのようなものであったか聞き取り調査を行い、彼の言説と比較する予定である。

朝鮮王朝における剣器舞とその記録―王室記録文献儀軌を中心に― 鄭 恵珍

 本研究では、朝鮮王朝後期、宮中や各地方の官庁所属の教坊・そして民間で幅広く宴行された剣舞を考察することを目的としており、その一環として、本発表では宮中呈才としての剣器舞の生成・展開・伝承過程を、宮中礼宴記録物である儀軌により明らかにすることを目的とする。本発表に先立ち、儀軌関連文献及びソウル大学奎章閣図書館に所蔵されている儀軌のうち、宮中呈才が宴行された称慶宴関連儀軌に関する文献調査をおこなった。
 儀軌とは'儀式の軌範'の略語で、王室及び国家の各種儀礼的行事を随行した後、その顛末を整理し、後日軌範として使うため残した文献で、儀軌には行事の全般的な内容のみならず、行事の過程を日付によって記録した各種公文書を含め、動員された人員・所要された物品・経費の支出・担当者の褒賞などが記録されている。また、必要な場合には、行事の全過程を描写した班次図や呈才図・使用物品の図説等が添付されており、当時の行事の具体的な手順や顛末が分かる。このような儀軌には、朝鮮王朝期、国家的行事や王室の慶事など対内外的行事で、構成員の紐帯関係を増進させるため施した宴会である宴享の顛末が記録され、そこで演じられていた楽・歌・舞の宴行手順・方式なども分かる。
 儀軌によれば、朝鮮王朝宮中宴享で剣舞の記録が初めて登場したのは 1795年のことで、最後の記録である1902年まで107年間の間、全部で12の儀軌に剣舞の記録がある。
 最初の記録である『遠行乙卯整理儀軌』は、朝鮮の第22代目の王であった正祖が、父親である思悼世子や母親である恵慶宮洪氏の還暦を迎え、恵慶宮洪氏に仕え思悼世子の墓がある華城にお出まししたのを記録したもので、1795年2月 9日から 16日まで8日間の記録である。そのうち、13日の行事であった恵慶宮洪氏の還暦宴記録に剣舞の記録があり、その後、12儀軌に剣舞・剣器隊・剣器舞などの名称として宮中の称慶宴で演じられていたことを示す記録が残っている。
 本研究で検討した結果、1795年宮中呈才として初めて宴行された剣器舞は、地方教坊呈才として郷妓らによって宴行された剣舞が、選上妓らによって宮中へ導入された可能性が高く、憲宗代に剣器舞として呈才名が定着したとみなされる。そして他の宮中呈才に比べ、比較的宴禮楽曲が決まっており、外宴以外に内宴・夜宴・会酌宴で、地方選上妓や医女・針線婢によって主に8剣舞や4剣舞の形式で宴行されていたことが明らかになった。
 それは、朝鮮前期まで地方選上妓と共に外宴・内宴・使臣宴などの宴享で呈才公演及び楽器演奏まで担当していた掌樂院所属の内宴呈才専門女妓らが女妓制度の弊害のため1632年廃止されたことに加えて、18cの後期になると民衆の負担を減らすため、地方郷妓の選上を自制するようにしたため、宮中に常住していた医女や針線婢らが呈才公演を担当するようになったのではないかと考えられる。
 朝鮮後期宮中剣器舞は、現行地域剣舞のうち、唯一晋州剣舞と宴行手順がほぼ一致するため、今後晋州剣舞との関連性に関しても考察する必要がある。

サハの口琴ホムス―周辺諸民族との比較から― 山下 正美

 本発表で取り上げる口琴とは、世界中に広く、古くから存在する楽器である。日本では、1990年に平安時代の遺跡から鉄製口琴が2点出土した。その後の時代のものとしては、江戸時代の文献のなかに口琴に関する記録がみられる。そして、アイヌの竹製口琴ムックリは、現在も演奏の伝承が続いている。
 またサハとは、ロシア連邦サハ共和国を中心に暮らす民族の名前で、言語学的にはチュルク諸語に属するといわれている。サハでは、ホムスという名前の口琴がさかんに使われている。そして世界民族口琴博物館や、国際口琴センターなどの機関が組織され、口琴のもっともさかんな国としても知られている。
 発表者は、これまでの研究でサハの口琴ホムス演奏家の活動に注目し、演奏家がどのように自らの演奏や演奏活動をとらえ、展開し、現在に至っているのかを考察してきた。その中で、ホムスとホムス音楽の現在についてはわかってきたが、それがどのような歴史を経て、今に至っているのか、さらに研究が必要であると考えた。発表者が演奏家を通して得た資料には、サハ人と、同じチュルク系民族間の歴史的つながりを示唆する記述が散見された。そこで本発表では、サハをはじめとするチュルク系民族(トゥヴァ、アルタイ、ハカス、キルギス等)、周辺諸民族がどのような口琴を持っているのかを明らかにし、その上でサハの口琴ホムスがどのような歴史的変遷を経てきたのかを考察した。

発表者所蔵のサハの口琴ホムス(下)とケース(上)
発表者所蔵のサハの口琴ホムス(下)とケース(上)

ピアノ演奏学習者におけるメタ認知と学習効果の研究―自己の演奏の客観的聴取を通して―
森尻 有貴

 本研究はピアノ演奏学習者を対象とし、演奏者が自身の演奏記録を演奏後に聴取することによって、どのような学習効果がもたらされるかを明らかにしたものである。演奏者は演奏中、常に自身の演奏している音楽を耳にしているが、演奏後に自己の演奏記録を聴取した時、演奏中とは異なる感覚を覚えることがよくある。本研究では、演奏後に自身の演奏記録を聴取する行為を、『客観的聴取』、演奏中に演奏者自身が認知している音楽と、演奏後に記録を聴取することによって認知される音楽の間に生まれる認知の差を『演奏認知差異』という用語で定義づけた。そして、演奏中に自己の演奏を認知すること、及び、演奏後に自身の演奏記録を聴取することによるメタ認知の働きに着目し、客観的聴取を行うことによってどのようなメタ認知の働きが起こるか考察を行った。
 本研究では、メタ認知をメタ認知的モニタリングとメタ認知的コントロールに分け、さらにメタ認知的モニタリングを、演奏中に行う進行モニタリング(on-going monitoring)と演奏後の客観的聴取による反映モニタリング(reflective monitoring)に分けた。客観的聴取による反映モニタリングを行うことによって進行モニタリングが修正され、この活動には演奏認知差異が関わっていると考えられる。
 そこで、教員養成大学及び大学院の音楽科に在籍するピアノ専攻の学生に対し、実験的調査を行った。演奏者には、演奏とその後の客観的聴取を1セッションとし、2セッション連続して行ってもらった。結果、客観的聴取を行うことは、1度目の演奏よりも2度目の演奏に対する自己評価を高めること、客観的聴取は試行錯誤の一過程としての役割を担っており、問題意識の明確化と解決方法の変移をもたらすことなどが示唆された。一方で、メタ認知的モニタリングの働きによって自身の演奏への意識化が遂行されていても、メタ認知的コントロールの過程で演奏上の技能により演奏向上困難な場合があった。これは、演奏に関する認知技能と運動技能が協応していないことが主な理由として考えられた。
 以上の結果より、演奏後に客観的聴取を行うことは、メタ認知的活動を促進するサイクルの一端を担うと同時に、メタ認知的知識の質を向上させ、演奏及び演奏認知に対して発展的な役割を占めることが示された。

大正期の雑誌『オペラ』の出版状況について 中津川祥子

 『オペラ』は、1920(大正9)〜1924(同13)年に活動俱樂部社(後に「活動社」)により出版されていた雑誌である。1919年には『オペラ評論』(活動評論社刊)と、『オペラ』という名の雑誌がもう一つあり(「編集兼発行人」は奥田信太郎氏、「発行所」はオペラ社。奥田『オペラ』と略す)、翌年この二誌が合併し『オペラ』として出版された。合併後、出版は『オペラ評論』に携わっていた人々が行い、誌上には奥田『オペラ』に携わった人々の名は見られない。現在これらの内容については、一部の文献に言及がみられるもののあまり触れられてこなかった。そこで今発表では『オペラ』に対象を絞り、『オペラ』を出版した側に着目し、いくつか項目を設け内容を整理した。それらを通して、『オペラ』が当時のオペラを支えるツールとしてどのような役割を果たしたのか考察した。
 『オペラ評論』11月号で奥田『オペラ』との合併の告知と同時に新しい名称が募集され、『オペラ』1920年1月号で新名称を『オペラ』とすることを希望した読者が多かったことが発表されている(p.86. )。『オペラ』編集部はこのように読者の要望に合わせる一方、その内容に鑑みて(同頁)新名称を『オペラ』と定めたのである。1923年の9月号まで月1回の出版ペースを守っているが、同年9月1日に関東大震災が起こり、印刷所が倒壊し10月号は休刊となった。11月号で一度復活したが、翌12月号から翌年5月号まで休刊している。1923年の7月号は一度出版したものの、「あるオペラ女優」の「風俗を乱すような」告白により発禁処分を受けている(p.84.)。この号は発禁処分を受けた後内容を変えて再度出版している。
 「発行兼編集人」は森富太氏である。「発行所」活動俱樂部社は1920年11月号で一度場所を変えており、1923年7月号より名称を活動社に変えている。値段は40銭で始まり、1920年7月号で50銭に上がっている。その後1921年1月号、11月号では70銭、1922年1月号が1円になっている他は、1923年11月号までは50銭でキープされている。
 また、大坂や名古屋などに支局があることが確認できる。支局をつくることは『オペラ評論』12月号、合併告知ページでも発表され、同時に支部長が募集されている。支部長については、広く一般公募とした。各支局は「支局通信」という形で各地での歌劇団の公演情報や歌劇俳優の様子を報告しており、支局通信を見れば、その場所での様子が分かるようになっている。この支局の存在も、本誌同様日本でのオペラの現状を把握する上で大切なものだったと考える。
 『オペラ』では編集者が個人名をオープンにし、誌面上で読者と積極的な交流を取る様が見られる。この親しみやすさが『オペラ』の特徴であり、上演されていたオペラに関する情報を広めさせる一助となったのではないだろうか。
 今後は、今まではこの雑誌を作る側にばかり注目したので、雑誌を読む側に注意を払いたい。

 15世紀フランスの祝祭における異文化表象 原口 碧

 中世末期のヨーロッパの宮廷では、宴会や武芸試合、劇の上演、行列といった盛大な祝祭が催されていたことで知られている。贅を尽くし演出を凝らされたこれらの催しはあらゆる象徴表現が散りばめられており、年代記や会計簿の詳細な記録によって分析が可能である。とりわけ15世紀のフランスにおける祝祭では、奇抜で風変わりな異国風のテーマや趣向が目立つ。フランスの大貴族アンジュー家とブルゴーニュ家の宮廷を中心に、異文化の表象にどのような意図が込められているのか検討を試みた。
 彼らの宮廷記録には、アジアやアフリカ産の衣装・調度品、外国の王侯より贈られたヨーロッパに生息しない動物、同様に遠方から連れてこられた奴隷についての記述が見つけられる。未知の世界への好奇心を煽るその存在は王侯たちを魅了し、それらを所有することは富のシンボルや権力のステータスとなっていた。そしてこうした装いや動物などによって異国渡来のものを見せびらかし、あるいは異国的なテーマを設定して未知の世界の非日常的な雰囲気を楽しむために、祝祭という場は絶好の機会であった。例えばアンジュー家の当主ルネが1455年に催した盛大な聖史劇に古代インドの物語を採用したのもこうした趣向からであろう。またブルゴーニュ宮廷でも、祝宴の場にはお決まりのように「ラクダを引き連れるサラセン人」や「ムーア人の踊り子」が登場している。
 しかしながら、対オスマン・トルコ十字軍の召集を目的として行われた1454年の「雉の饗宴」では、単なる贅沢と異国趣味ばかりではない様子が覗われる。ブルゴーニュ公フィリップの呼びかけによって盛大に催されたこの宴会は、豪華な料理とともに趣向の凝らされた奇抜なアントルメ(余興)が繰り広げられ、擬人化され女性の姿で表される「キリスト教教会」と、宮廷お抱えの巨人が演じる「サラセン人」が登場する。サラセン人つまりイスラム教徒は、その他の祝祭演出においてもそのエキゾチックな外見を好んで強調し演出されることがよく見られるが、オスマン・トルコ軍による脅威に晒されていたこの時期、リールの饗宴でのサラセン人は異国趣味的な演出ではなく、打破すべき異教徒として描かれているのである。そこには、善(キリスト教徒)と悪(異教徒)という二つの対比が明示され、彼らの衣服の色によって象徴的に表されている。清貧・純潔を表す白と黒の修道服を着たキリスト教教会の擬人化に対して、サラセン人は異教の色である緑を身に着けていた。
 以上のように中世ヨーロッパの祝祭では何らかの目的を持ち、それに従った綿密なプログラムが組まれ、象徴表現によって明示される。もちろん参加者を楽しませることを目的としていたことには違いなく、未知の世界のモチーフを登場させることは当時の異国情緒をかき立てるものとなっていた。しかしさらに時代の背景とともに読み解くと、リールの饗宴のように衣服やしぐさ、言葉、そして祝祭のテーマやプログラムすべてにその要素が反映されていることが明らかになる。本報告ではその一例を提示するのみにとどまったが、歴史のコンテクストとともにさらなる綿密な祝祭演出の分析を今後の課題としたい。


表象芸術論領域研究発表会担当 徳井淑子 中村美奈子

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